【Sweetie×Sweat=Infinite】3-1

 世の中には二種類の人間がいると言うありふれた定型を引用するのであれば、料理の出来るひとと出来ないひとがいると思う。私の彼女が前者で、お恥ずかしいことに私は後者なのである。女性はおしなべて花嫁修業をなし未来の家族に貢献すべきだと提言することが疑問視されるようになった現代の風潮は、私の如き自堕落な女に努力を強要しなくなった。枷を外すことは必ずしも善ではないと、あるいは皆さんもご存知だろうか。ペーパテストを思い出してもらうといい。択一問題と記述問題のいずれが難解かは、異論多々あるとは言え、自分の言葉で解答を探しに行くよりも、並んだ肢の中からそれらしき一答に丸を付ける方が容易なのは明らかである。「さあ、どこへ行ってもいいのです。あなたは自由なのです」が、私は怖い。その道をどう歩いていいか分からなくなる。自由を積極的自由と消極的自由に分けた心理学者がいたはずだが、私は消極的自由の側へ落ちる軟弱な人間だ。こうしなさい、ああしなさいで安心してしまう、生まれついての優柔不断だ。加えて、料理が壊滅的に下手なのだ。

 私の恋人、尚葉<ナオハ>が言うには、「料理なんてね、レシピをザラっと見たら、あとはバーンでドーンだって! 出来る出来る」らしい。私にはその擬音部分が足りていないのかも知れない。むしろ、努力が足りない。大学が実家近隣だったことと、親に甘やかされて育ったことと、何より私自身の研鑽のなさが、総合して料理下手な私を完成させた。就職後、一人で生きていけるのかが自分でも怪しいけれど、独り暮らし組の数名のように、外食なりコンビニなりで強引にやっていくのだろう。もしくは、あと一年で上達する可能性に賭ける。必要性に駆られた今の私は、尚葉に少しずつ教わって、遅い努力が花咲くのを僅かに期待している。先の発言からも伺える通り、感覚派の彼女は他人を教育するのが少々苦手で、二人して困り合ったりすることも多い。でも、彼女は私の失敗をけっして叱咤することなく、優しく教えてくれる。それだけで私は頑張れる。

 問題は、私の成長を待たずに二月十四日がやって来たことにある。例年の私がどうしていたかと問われれば、友人連中にあからさまな義理のチロルチョコを振舞っておしまいだった。本命なんて渡したこともない。恋に疎い女にとって、バレンタインはとりあえず洋菓子に携わっていればいい程度の些細な行事であり、友達の手作りクッキーに紅茶を添えて美味しく頂くのが常だった。それが、今年のバレンタインは土曜日だから友チョコ義理チョコの売り上げが減る、と言うニュースレポータの物知り発言に頷きつつ、本命チョコを渡す子は大変だ、とまで考えてから箸を落とした。私も当事者だと気付いたのが一週間前の土曜日で、その日から私の戦争が始まった。

 女性が意中の男性へチョコレートを送るのは極めて自然である。女性が友人の女性へ送るのも許される気がする。男性が女性へ送るのは逆チョコで、今年の流行りらしい。みんな気持ちを送り合っている。だから私も送りたくなった。女の私から、本命のあの子へ、日頃の感謝を形にしてみたかった。これは私にとってとても自然な感情だった。そして、この世界の至るところにいるはずの私と似た状況の誰かにとっても、きっと自然な感情。

 ただ、動機が純粋な割に私の道行きは脱線し続けることになる。まず既製品を買うのは真心に欠けると考え、次に自分の手腕の低さを思い出して躊躇い、気持ちさえ篭っていれば手作りじゃなくても大丈夫だと開き直りかけ、やっぱりそれは駄目だと思い直し、下手でも頑張って作ろうと思い立って、調理を失敗して失敗して失敗した。砂糖を塗した弾丸は、火薬の分量を間違えていないにも関わらず不発を繰り返した。多分に、銃の知識であったり、操作手順であったり、どこか私の気付かない部分がおかしかったに違いない。お菓子と銘打つのもおこがましい、粉っぽい何かや水っぽい何かを口にしながら、味はちょっと美味しいかもなんて情けない自己弁護をして悲しくなった。こんなもの、恥ずかしくて尚葉に渡せない。だからって諦めるのも納得出来ない。私は孤独な七日間戦争を継続して、最終的に敗走した。行きつけの『トークン・ワイプ』で綺麗にラッピングされたストロベリトリュフを買った時の私の悲壮さと言ったらない。小さくて可愛らしい紙袋を揺らして帰った私の背中は、実寸以上に小さく見えたのではないかと思う。『トークン・ワイプ』で同身長の女性を見かけたのが久方ぶりなぐらいに私は長身の部類で、密やかなコンプレックスになっているから、小さく見えるならそれはそれでいいかと、もう自分を守っているのか傷つけているのか判別出来ない考えを浮かべた。

 枕元に愛情のレプリカを置いて、明かりを消した。思考の堂々巡りは止まらずに私を苛む。誰かを頼れば良かったかも知れないと思った。けれど最も頼れるはずの尚葉には内緒にしていたかったし、頼りやすい母親は仕事が立て込んで疲れ気味だった。友人は仕事や研究に忙しく、私みたいな素人に一から教えるだけの時間を持っていない。迷惑はかけたくなかった。歳を重ねる都度、人と関わることへ臆病になっていく自分は、それ程珍しい存在でもないと思いたい。好かれたい感情より、嫌われたくない、失いたくない感情が先行し出す。私が尚葉の告白に答えた理由は、私を慕う彼女に嫌われたくなかったからだと言ったなら、どれ程の非難が飛んでくるか知れない。でも、普段は始終笑顔を振り撒いている二個下の女の子が、二人きりの実験室で、泣きそうな声の「好きです」を告げたその勇気と期待を無残に引き裂いてしまうより、私の愛なんて幾らだってあげたいと思ったのも本音だった。こちらはチョコの顛末と逆で、動機が不純な割に恋愛街道一直線なのだから、人生は良く分からない。今は彼女のことが大切だと胸を張って言える。

 不意に、傍らのチョコが囁く。威勢だけで、あなたの愛情は形に成らなかったねと嘲笑う。私は耳を塞いで眠った。

 卒業論文の提出を終えた彼女とのデートは、示し合わせたみたいに二月十四日だった。わざわざバレンタイン当日を選んでおいて、美術館へ百人一首の書道展を見に行くカップルは稀有だけれど、彼女と一緒ならどこへ行っても幸せな私と、何を見ても楽しめる彼女だからそんなに問題は無かった。デートは七対三程度の割合で尚葉に誘われることが多く、今回、「玖美<クミ>さん、へにゃへにゃした文字で和みに行こ」と言い出したのも彼女だ。私は学会発表に、彼女は卒論に忙しく、なかなか二人で過ごす時間が取れなかったため、お互いが自由になる日に遊びに行きたかった私としては願ったり叶ったりだった。とにかく嬉しくて、十四日が世間的に何の日かまで頭が回っていなかったことを恥じた。

 こんな私のどこを気に入ったのか、付き合い始めの頃に訊ねた覚えがある。「んー……優しくて面倒見がいいところ、かなぁ? 最初はツンツンしてる話しかけ辛いひとだと思って苦手意識全開だったのに、私の実験計画のこととか、データ分析のやり方とか、知らないことは何でも丁寧に教えてくれましたよね。みんなが『桐生<キリュウ>に聞け』って言ってたの、遠回しなイジメだと思ってたんですけど、納得だなってなっちゃって。話してみるとすごい優しいし、話しやすいし。そしたらいつの間にか、頼れる先輩への憧れがどんどん膨らんで、ほら、飲み会の時に『彼氏いるんですか?』って聞いたじゃないですか。桐生さんの『いないよ、全然もてないもの』で風船がパーン! ですよ。モテるよ! って叫びそうになりましたね。あなたの横の国木田<クニキダ>がガッツポーズ取ってるの気付いてよ! でも良かったです。まぁ、あの質問は国木田じゃなくて井森<イモリ>の差し金だったんですが、こう、わたし、ムカってしちゃって。自分で桐生さんに聞けないようなマンチキンどもにわたしの桐生さんは渡さない! でした。で、ああ、好きなんだ、って。わたし桐生さんのこと好きなんだって思い知って、そっからぐるぐるな日々でしたよ。告白前のわたしの悶々を語ったらすごいですよ! 聞きます!?」。途中から熱を帯びて来たと思ったら、最後は身を乗り出すみたいにして問うた。買い被りだよ、と返すより、辛い思いをさせた意識が先立ったから、彼女の手に私の手を重ねて、ごめんねと告げた。「あえ!? 謝られても、えっと、ごにょごにょ」。私の掌の下でうろたえる指がいかにもごにょごにょしてる雰囲気で、つい微笑んだのが半年前だ。この半年で、お互いの呼び名が苗字から名前に変わったり、二人でいる時は敬語を止めてくれるようになったり、指だけではなく唇や心を重ねる関係に進んだり、彼女が寂しがり屋なことと私がドジの多いこととを互いに知り合ったり、色々あったとまとめてしまうのがもったいない素敵な時間を過ごした。もちろん喧嘩もした。「もっと振り回してよ!」と不思議な叱られ方をしたこともある。我侭の苦手な私は、しかし彼女に望まれて、少しだけ自分の意志で彼女を束縛するようになったのだった。ぶらり女の一人旅が、ぶらり女の二人旅に変わった。私は別府が一番のお気に入りで、尚葉が湯の川でゆだるまで浸かっていたのは、気に入ったのか、美人湯だからかのいずれかだ。あまり綺麗になられたら他の子が色目を使いそうで複雑だったことは口にしていない。私にも人並み程度の独占欲はあったのだと気付かされて、何だかおかしかった。

 それでも、私を欲したりリードしたがるのは専ら彼女側であり、二月十四日も手繋ぎされて彼女の後を追った。恋人の日の美術館は、展示物のニーズからか歳を召したカップルが大半で、彼らが私達の恋仲を察することもなく、落ち着いて展示を眺めることが出来た。浮き足立つ街々の色めきと異なる静けさは好ましく、柔らかい文字が綴られた扇や短冊の素朴な佇まいも相俟って、私を耽美な時間に溶け込ませた。一方の尚葉は興奮抑えきれずといった風に、掌を薄く汗で濡らし、時折感動を伝えるように繋ぐ手の力を強めたりした。場所が場所でなければすぐにでも言葉を連ねたかったのだろう。我慢の体現とも呼べる結ばれた唇は、私も、場所が場所でなければすぐにでも触れてみたかった。和の世界に夢中な彼女と違って、邪な私は半分の時間展示を愛で、残りの半分は尚葉に魅入っていた。

 だから、展示をじっくり三周したあと、最寄の寂れた喫茶店に行ってからの尚葉の語りぶりと言ったら、筆も舌も尽きない程だった。「ディスプレイに浮かぶゴシックだとか明朝だとかを見慣れてるせいで忘れがちだけど、ほんとは文字って綺麗だし、遊び心いっぱいだよね! あのふにゃふにゃてろーんって書かれてた文字なんて、注釈がなかったら殆ど読めないのに、ううん、読めないからこそ、すごく文字自体の綺麗さが伝わるっていうか、ああ! みやびーな感じで素敵だったあ。玖美さん百人一首って詳しい? ……ムスメフサホセ? うん、うん……わあ、そういう裏技あったんだ。百人一首カルタ大会、わたしも高校時代に毎年あったけど、そっかー、知らなかった。早いひとはそういうテクでスコアを稼いでるんだね。玖美さんも早かった? ……ぷはっ、玖美さんらしくてかわいー……。お手つきは札取られたりしたね、したした。わたしは運が良かったのか悪かったのか、クラスに二、三人いる『何故か百人一種に強いひと』がチームにいたりして、もービシバシだったもんだから、自分の前三枚くらいを頑張って、ここはわたしの領土よーって一瞬ビシバシ、もといビシ、だったかな。え? カルタと百人一首詳しいのは別……ああ、そかそか。じゃあテスト! さっきのムスメフサフサを全部詠んでください! あれ、なんか違う……? だよね。フサフサしてないよね、当時の髪型。それも違う? そっか! フサフサだったら頭一字でユニークになってないじゃんね! えっと、じゃあフサホセで……おー……ふむふむ……ってえ、わたしにパラメタの正誤判断出来ないんだし、玖美さんがそれらしい歌詠んだら納得しちゃうよ! え、一個だけ嘘? でしょー!? でもでも、六個合ってるなら詳しいひとだ! ね、ね、展示の奴いくつか読めた? ……読めるのもあったんだー……うわー、損したかも! したよー、したした! 注釈っていうのはズルなの、ズル! 正しい鑑賞の在り方は、自分の持ちえる知識だけで勝負なんだからね。読めたらまた違った趣が……しかしフィーリングオンリーで芸術を愛するのもまた大切……ひっどーい! わたし100パーセントフィーリングじゃないよ! 100%ORANGEは大好きだけどさぁ……うん……そうだね、紙は流石に玖美さんもわたしも門外漢か。門外娘? 何にせよ、そだそだ。描かれている懐紙とか扇の、やれ素材がとか、やれ染料がとか考えるのは野暮だもんね。そっちはカンペキフィーリング重視だよ。デコボコした表面に、こう、墨がすーって染みてる様子が、すんごいいいの! 油絵みたいに2.5次元してるよね。安易なデジタル化に歯止めをかける、ナマの風情だよー。……もう! 突っ込まないの! そりゃサラっとした紙使ってるのもあった、ありました! 玖美さんの意地悪……そっちの感想? 控えめな雰囲気がコンパクトかわいかったかな。まるで玖美さんみたいに……だーかーらー、玖美さんは可愛いの! 卑下しない! 背高くても可愛いひとは可愛いの! ……だっ、誰が可愛いだ!? べべ、別にわたしは可愛くありませんよーだ。あーん! 言うな! 囁き声で言うな! やめれー!」。……改めて思い出すと、他愛ない会話が大半の気がするのはご愛嬌だ。そう、長い前振りを経たものの、私が今置かれている状況に比べれば何もかも他愛ない。二月十四日、二十二時過ぎ。私はボディソープで肌を磨く手を止め、脱衣場の影が投げかけた質問への返答に迷っている。

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 世の中には二種類の人間がいる、なんて言うけど、わたしにとっては優しいひとか優しくないひとの区別。誰かに優しくしてもらうことでわたしはわたしの存在価値を見出す。太陽のフリをした月。自分から発光出来ない寂しい天体。ピカピカ、キラキラに憧れて、頑張って空回り<ソラマワリ>空回り<カラマワリ>。高校時代が最低だった。「出過ぎ。張り切っちゃって馬鹿じゃないの」だった。笑われてハブられて、カラカラカラカラ、空転する日々の中、無口になって、だのに喉カラカラ。目立ちたいからじゃない。優しくして欲しかっただけなのに、何だか全然へたくそだったみたい。そういうぐるぐるが一周したら、開き直って元のキャラに戻った。出過ぎたら悪いって、何それ僻み? 張り切るよ、優しくされるに足る人間になりたいんだからさ。泣いてれば誰かがそのうち優しくしてくれるなんて受動的な甘えはいらないよ。優しくすることで優しくしてもらう交換原則を信じて、そういう図々しい誤算の集大成が八坂尚葉<ヤサカナオハ>のバックボーン。ケラケラ笑ってるのが表っ面なくせ、能面の裏では怯えちゃってさ。精一杯虚勢張って生きてるのね。

 けどまあ、その虚勢モードのインパクトが強いらしくて、なかなか弱い自分を曝け出せなくなったのが現在進行形の大学時代。彼氏欲しくて仕方ないのに、いい友達で終わっちゃうし。何だよー、わたしだって女なんだからさ、甘えさせてくれる相手欲しがったりもするよー。そんなこんなで枕を濡らす日々が続き、玖美さんに出会ったのでした。

 最初はねー、ものすごい近寄り辛さだったの。嫌いなタイプだと思った。独りで生きていく気満々な強いひとってイメージ。関わりたくない部類の怖いひと。でも、やたらみんなが口を揃えて『桐生に聞け』なんて言うもんだから、とうとう折れて質問したのが、関数の組み込み方。そしたらわたしのやりたいこと、つまり要件の話から始まって、うざいなーうざいなーと思いながらやり取りしたんだけど、全然トゲトゲしくない物腰と、ゼミで話した程度のわたしの研究内容をしっかり把握してるところと、わたしが使う予定だった関数が実は仕様にマッチしていないからこっちを使った方がいいよってお勧めまでしてくれて、至れり尽くせりだった。超人過ぎるし。ニーチェかよって。それ以来何度も質問をすることになったけど、その度に一々優しくてぐらぐらした。何? 馬鹿にされてんの? 教える優越感? 研究室内の評価上げたいわけ? 後輩を教える義務? わかんない、わかんない。怖いぐらい優しい。どんなに自分が忙しくても、忙し過ぎて相談が深夜になっても、絶対に付き合ってくれる。なのに嫌な顔ひとつしない。研究成果はすまし顔で仕上がっている。

 そのうち研究以外のことを話したり、遊びに行くようになった。何を話しても、どこへ行っても玖美さんは優しかった。わたしはどんどん惹かれて、怖くなった。わざと玖美さんを困らせるようになった。底なしの優しさなんて有り得ないと、玖美さんを試した。それでも敵わなかったから、流石の玖美さんも女に告白されたら困るはずだ、メッキが剥げるはずだって、わたしは冗談のつもりで「好きです」を言うつもりだった。今はタイミングが悪い、タイミングが悪いと、ずっとずっと言い訳を繰り返して、やっと二人きりの場面になったら、冗談なんて無理だった。わたしはもう、正真正銘玖美さんに夢中だった。そして、玖美さんがわたしの我侭に応える未来まで見えて、泣きそうになった。予定調和で彼女の恋人になった、わたしはズルい。玖美さんは国木田でも井森でも、ううん、それ以外の誰かでも、求めれば応えたに違いない。ほら、やっぱりわたしの有用性が必要になる。玖美さんが「尚葉と居て良かった」って思えるように、ずっとわたしへ優しくしてもらうために、わたしはとにかく必死だった。玖美さんは、強引に手を引くわたしに、いつも付いて来てくれる。わたしは幸せと不安でいっぱいになる。わたしに付き合わせる罪悪感から、つい、「もっと振り回してよ!」なんて変な叱り方をしたこともある。その時の玖美さんはと言えば、何故か謝って、優しいキスをくれた。それからは少しずつ、玖美さんの趣味であるところの温泉巡りに同伴することになる。そう、温泉です。玖美さんの無防備な背中や濡れ髪、柔らかい曲線は凶器です。初めは意識してなかったのが、段々触ったり口付けたりしたくなってきて、違う、こういうのはおかしい、玖美さんに欲情するのはおかしいって自制しつつ、恋人同士だったらしたくなってもおかしくないのかな、玖美さんも言わないだけでしたいのかな、キスは玖美さんも好きみたいだから、その次だって……とか何とか、まるで中学生男子のような大学生女子は、湯煙にゆらゆら霞む玖美さんを見たり見なかったり、ふらふらです。最後に行った湯の川温泉では、今日こそ玖美さんと結ばれるんだ! とか意気込んだ割に、お決まりの自制心が働いて欲求とドンパチした末、リングたるわたしがバタンキューしてドロー。玖美さんの膝枕でパタパタしてもらう羽目になった。

 それでわたしの欲求が冷めたかと言えばそんなことはなく、玖美さんの写メを見ながら慰める回数が増えてきて、女だって独りでします! とか開き直るも空しく、カラカラ。だったので、聖バレンタインに勇気をもらうことに決めた。友人から恋人へのステップアップをする日なら、キスからその先にステップアップだって出来るはずだって、ちょっと男子ーならぬちょっと女子ーな決意。元防衛相風に言えば、『女子の本懐』、なんて文句も似合うかも知れない。

 二月十四日。わたしと玖美さんの間にはバレンタインのバの字も出ず、変に意識しないで済んだ。デートの日取り決めで全く突っ込みがなかった時点で、もしかするとイベントの存在さえ忘れていた可能性がある。玖美さんは変なところで抜けてる時があって、わたしはそういうのを見るにつけ彼女にときめいてしまう。『桐生に聞け』の頼られぶりとは無縁な、わたしの、わたしだけのおっちょこちょいな玖美さん。他のひとには内緒なその部分が、だからこそ愛しい。秘密は独占したい。例えば、みんなが謙遜だと思ってる「料理、苦手で」の真相は、研究室ではわたししか知らない。そのお陰で玖美さんの料理の先生はわたしだ。彼女はきっと、わたしを立てようと思ってお料理教室風デートに同席してくれてるんだろうけれど、わたしでも玖美さんに教えられることがあるのは嬉しい。「まーた八坂のキリューサーンだよ」と揶揄されても、わたしだって玖美さんに頼られる時あるんだからね! って内心鼻ノビノビである。……そんな、頼りまくってないですよ? 多分。自分で調べられることは自分でやってますよ? ホントに。一応行動派の女なので。二月十四日もほんの少しの小細工を用意してから、玖美さんを美術館、喫茶店、梅の咲く自然公園、ファミレスと連れ回して、最後にわたしのアパートへ来てもらった。アイスティーに合うクッキーを焼いたので味見して欲しいと言ったら、玖美さんは妙にそわそわし出す。ここで彼女もバレンタインを思い出したに違いない。玖美さんがチョコを用意していなければ好都合だと思っていたら案の定で、困り顔の玖美さんに、だけどバレンタインだからとは言わず、飽くまで味見を建前とした。建前。クッキーはただの建前。アイスティーが本命と言えば本命。わたしは自分のテーブルクロスとカーペットと玖美さんの洋服を犠牲にして、紅茶をどばーっと『こぼした』。ティーポットのネジが緩んでいたと言う『設定だった』。「シミになっちゃうよ」と『テーブルクロスから』拭き始める玖美さんの女神ぶりにくらくらするも、全部わたしの悪事なので自重する。謝罪を口にしつつ、「洋服はすぐ洗うから、玖美さんはシャワー使ってて」と誘導した。湯船にお湯が張られてるのを変だと思う頃には、わたしのわたしによるわたしのためのバレンタインが始まる――ものの、幾ら玖美さんが女神だからって、ドン引きされる予感がちらちらする。大体、わたしが玖美さんをエッチな目で見てたと伝えてしまったら、嫌われるかも知れない。でも、もうわたし、我慢出来ません。

 アルファベットチョコレートの袋を片手に、脱衣場のドアへ近寄れば、彼女がシャワーを浴びている音が幽かに聞こえる。無闇にしっかりした造りの2LDKは、浴槽も浴室も二人で入れるくらいに広い。ドアを開ける。わたしはまた、臆病に告白する。磨り硝子にぼんやり映る大好きなひとへ向かって。

「玖美さん、あの……い、一緒に入ってもいいですか?」

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