【接触のコモン・センス】

 例えばそれは、握手。互いの掌が触れ合う形。指の関節が多いのは他者の手を掴むため、なんてことはないだろうけど、私達の手は結構、気ままに、自分ではない誰かの手と相性よく繋がる構造になっている。しかし他者ありき、だ。握手は独りでは出来ない。対称に近しい右手と左手が寄り合うのは、敬虔な祈りか、片目を瞑って謝罪、揉み手での愛想、オペラ歌手の発声、エトセトラ。私はそのどれもがあまり得意ではない。ただ、握手は好き。

 例えばそれは、抱擁。互いの体が触れ合う形。感極まった際の喜びを分かち合うのも、落ち込んでいる肩を優しく包むのも、別離の背中を少しだけ引き止めるのも、みんな愛しい。大柄な野球少年だった君が、あの時は随分小さくなってしょげていたね。熱狂的な夏がいつしか終わるように、私達の、あの、狂おしいばかりに暑かった青春は、スコアボードが残酷な結末を示したあと、グラウンドに積もった沢山の想い出のひとつになった。だからって、意味がなかったわけではないと思うの。だって君は笑顔だった。特急の電車と駆け足の時間が連れ去った、最後の君の感触と表情とが飛びっきりの前向きさに溢れていたのは、ねえ、私の記憶違いじゃないでしょ? ……もう、いいひとの一人も捕まえたのかな。昔の女の私からは、ちょっと、聞き辛いね。私? うーん……恋愛は、少し、疲れたみたい。君とが一番自然体だったのかも。ただ、抱擁は好き。

 例えばそれは、舞踏。互いの音楽が響き合う形。高校時代の創作ダンスを思い出す。男の子は柔道と剣道で選択出来たのに、こっちは一択っていうのが何だか不平等だった気もしながら、荒々しいのは苦手だったし、手を取るのは好きだったしで、丁度良かったのかも知れない。それにしても自分のリズム感のなさには驚いた。体が柔らかいだけじゃ踊れないね。後夜祭のフォークダンスだって、君、爆笑してた。でも、拗ねた私を上手にリードした君は、やっぱり男の子だったな。舞踏は、好きだけど苦手。

 例えばそれは、口付。互いの唇が愛し合う形。君以外のひととも沢山した。みんなそれぞれ好きだと思ったのは、私の中で真実だった。キスだけで幾らでも気持ちよくなれたのも確かだった。……それが飽くまで私の真実に過ぎないのだと思い知らされるのは、そう遅くもなかったよ。あの夏の、君との一度きりの夜みたいに、彼は、彼らは、彼らにとってキスより気持ちよくなれる方法を試したがった。それ。互いの秘密が繋がり合う形。口付は好きなのに、私は、そのあとが怖くなって、辛くて、唇の接触にさよならした。そうして遡るように、体の接触を諦めて、かろうじて握手だけが今の私に許されている。

 私の愛情が足りなかったのか。他の子は普通に、当たり前にあれが出来るのかな。酔ったふりをしてお酒の席で訊ねたり、インターネットで誰にも言えない勉強をしたり、DVD、見たり。抽象的な言葉や情報は大丈夫なのに、映像や写真に尖った器官を明示されると、私は目を背けてしまう。ヘッドホンで歌っている女のひとの声も、妙に空々しくなって電源を落として、悲しくなる。「AVなんて男専用の夢商売だって! あんな風に喘がないっての!」と笑い飛ばす子もいれば、「あー……結構、声出る方かも……な、内緒だからね」と言う子もいて、声うんぬんは置いておくとしても、みんな幸せそうにそれのことを話す。私に寂しい羨望をもたらす。

 多分、君との初めてをするより前に、最初から、私は男のひとのものが怖かったよ。お互い裸になってくっついてみて、私のお腹に押し当てられたその感触の恐ろしさにデジャヴがあった。硬いのに変な柔らかさの残った銛みたいな器具は、私達の抱擁を始終邪魔していた。触っても、見ても、僅かに舐めてみても違和感は拭えなかった。君に付いているものなのに、別の何かだと感じた。沸いた疑惑を何度も打ち消して、君の指が私へ触れる嬉しさだけに浸ろうと頑張って、それでも最後は血と涙と苦痛で滅茶苦茶になった私にとっては、避妊具の中に吐き出された君の快楽の跡がせめてもの救いだった。謝罪の言葉といっしょに頭を撫でてもらったのは、救いにならなかったって知ってた? 私がずっとぐずり続けた理由は、結局君に告げなかったままだね。きっと一生、秘密になる。

 私はひとに触るのが好き。異性に触るのも同性に触るのも、どっちが好きか選べないぐらいに気に入っていた。けれど男のひとに触るのはいけないことらしいから、もう、止めるんだ。

 誤解させたのは私だから――乱暴されるのも、仕方ないよね。

 ■ ■ ■

「あん、そこ……そこ、スゴイいいです……軽くメマイ……」

 私の下でメトロが呟く。私はといえば、ベッドに寝そべった彼女の腰へ両手を宛がい、親指を慎重に押し込んでいる。強張った背筋には疲労が満遍なく充填され、彼女の果敢な労働ぶり、さもなくば日頃運動慣れしていないことを改めて私に知らせた。所属サークルと所属者の特性とが完全にイコールの時は稀であり、絵本同好会にも巽<タツミ>のような筋骨隆々の柔道部気質の男性がいたりする一方、やはりメトロのように柔和で保育士にでもなりそうな女性がいる。彼女は性格も体も柔らかく出来ているが、その性質が有り余って溢れているのか、常時の動作がふらふらしていて危なっかしい。『貧血標準装備』、『柳かつ下の泥鰌<ドジョウ>』、『鳥の寄ってくる案山子<カカシ>』等、彼女を形容する妙なフレーズは多い。園児からは良く『ゆらゆらお姉さん』と呼ばれ、部内での通称『マイペースメトロノーム』、略称メトロの彼女の本名は、少なくとも私の知り得る範疇では呼ばれていない気がする。

「何したらこんなに凝るのさ」

「真咲<マサキ>准教授の蔵書整理ですよ。お礼のタワーパフェが、かなりメマイもので……んんっ!」

「物に釣られて慣れない肉体労働をするのは感心しないな」

「ボランティア、ですからー。パフェはチップ扱いです、二重の意味で別腹」

 顧問の准教授の書庫が資料と娯楽と積み本の地層であるなら、『シールズ』のタワーパフェはアイスとプリンとカロリーの地層だ。なるほど、昨日の君は考古学の探求にいそしみ、筋肉疲労を発掘してきたらしい。ただし君は、恐らく、事後の報酬がなくても文句を言わなかったと思う。底に遺物があったら指示待ち掘る彼らと同じで、そこに依頼があったら私事を放るのが君だ。

「先生も酷なことをするね。うってつけの巽を差し置いて……ああ、その時期か。整理という名目の個人面談の時期だ。私も二年前にやったな。在学中の部員は、みんなそうだ」

「変わってますよねー。他のサークルの顧問なんて、名前ばかりで部に関与するのも稀なのに……読書会に良くいらっしゃいますし、コンパにも来ますし、まるで部員みたいです」

「年齢不詳さが拍車をかける。白衣着て教鞭執ってるところ、初めて見た時はすごく驚いたな」

 私もです。メトロのくつくつ笑いが指から伝わる。君は「博士1年の真咲晶<アキラ>です」を真面目に信じたクチだったね。あのひとの悪戯には毎年みんな騙される。同好会創設三年目の今年は、しかし、メーリングリストを初運用するに至り、『Doctor』エイリアスの不在ですぐに嘘が露見してしまった。「んもー! 使えねえなあワッサンは! 飲み会行きづらくなるでしょーが!」と怒っていた割に、新入生歓迎コンパにはちゃっかり来ている彼女を見て、ワッサンこと風花<フウカ>が「あたし怒られ損じゃね!?」と動揺していたのを覚えている。二次会では涙酒だったのがかわいそうでもあり、おかしくもあった。

「本当に、幾つなんでしょうか。園児と遊ぶ時の順応性の高さって言ったらないですよ。大人の余裕なのか、単に子供っぽいから気が合うだけなのか……」

「後者だと思う」

「ごめんなさい、私も。准教授の人気者ぶりには結構メマイですねー。陽色<ヒイロ>さんもかなりの愛され度でダブルメマイ……まさに子供たちのヒーロー……」

「長音符が余計」

「あ、ちょ、ちょっと痛いです!? 体重かけ過ぎで僅かに痛げ、かつ、何故かますます痛くなる!? あてててて。ギブ! ギブです陽色さん」

 名前をカタカナで呼ばれるのも、体重というキーワードを口にされるのも嫌なので、ついマッサージの域を超えてしまった。大人げない自分を反省し、今度は優しく触れる。メトロは至極気持ちよさそうに、長い声で鳴いた。

「でも私、陽色さんが懐かれる理由は何となく分かるんですよ」

「前者? 後者?」

「どっちも違います。こう……触ってもらうと安心するんですよね……安楽死級にメマイな、マジカルハンド? あの歳の子供って、言葉よりも表情や態度なんかに敏感じゃないですか。ノンバーバルコミュニケーションは何歳になっても重要ですが、特に言語のツール化が曖昧な年頃だと、余計に、言語以外の情報を有効活用しようとしますよね。そういう子から見て、陽色さんのノーガードぶりと言いますか、自然に手を繋いでくれるのが、受け入れやすいんだと思います」

「自然に見える?」

「もちろんです。……えっ、もしや光源氏計画……!? ああっ、また痛いからお手つきの気がします!? 青田刈りではなかったんですねわかりましたギブ!」

 メトロの手がベッドの縁でロープタッチする。流石に園児を紫の上に見立てる趣味はない。ただ、私は彼女の他愛ない冗談よりも、自然さを肯定されたことが怖かった。触りたいから触ることの不自然さを暗に咎められているようで不安になった。自然、ではないよ。こんなに寂しい手を持っている女は、不要な誤解をたくさん招く。二年前の私を知らない君は、私が本当はどんな女だったか、気付いてないんでしょ? 男女見境なく触る、歩くセクシャルハラスメントの権化だったよ。性的な部位に触れはしなくても、妄りに劣情を煽ればそれはセクハラだと叱ったのは、巽だ。彼と本気で喧嘩をしたのは、その時が初めてだったように思う。アルコールが入っていたのを盾にした、私の言い訳は見苦しかった。「お前らが勝手に欲情しているだけだ、動物め。気味の悪い性器がついてる動物め。いっそ切り落としてやろうか、それ。そんなものさえなければ、みんな、みんなうまくいったのに。それがいつも幸福の邪魔をする!」。巽は私の顔を殴った。そのあと、確か、搾り出すような声で告げたんだ。「あんただけだと思うなよ」。彼の台詞の真意は未だに分からないけれど、とにかく、無性に悲しくなって私は泣いた。飲み会は一気に白けて、巽は女に手を上げた最低の男としてしばらく部員から無視されるも、私が周囲を説得して不和は終わる。良く考えれば君が手加減していたのは自明で、私の頬は数日赤い程度の被害に留まっていたわけだし、第一、翌日に潔く土下座した君に比べて、私の卑怯さと言ったらなかったよ。君は多分、傷ついていたのに、私は「気にしないで」と言った。まるで君が悪事を働いたのだと言わんばかりの傲慢だったね。君はもう私を許しただろうか、それとも忘れてしまった? 何にせよ、君は頼れる友人になった。男女の関係にはならなかったのが不思議なぐらい、良く二人で飲んでは笑い合う、その関係はまだ続いている。

 或いは君との特別な付き合いが成功したせいで、君の知らない場所で他の男に触っていると知ったら、君は怒りますか。乱暴をされているんですと告げたら、また、直截な方法で、私の過ちを正してくれますか。

「あの……陽色さんっ。お腹は、こ、凝ってないですから……減っても、いませんからぁ……困ります……メマイメーターがピンチです……」

「? ごめん、考え事してた」

 無意識のうちに私の掌はメトロのお腹に伸び、さすっていたらしい。しかもかなりの密着状態で、だ。これで私達の性別が不一致だったら、また例の勘違いという奴が発生するに違いない。メトロが女性で、しかも数ヶ月越しの友人である事実が私を安堵させる。今のはやりすぎだとしても、私がすぐに手を繋ぎたがる癖のある人間なのは君もご存知の通りだし、こんなのはお酒の席では良くすることだから、大概、しょうがないひとですねって、笑って許してくれるよね。

「……しょうがないひとですね……」

 案の定の文句を告げると、メトロは私の下から抜け出した。私と向かい合わせで正座して、チクタク揺れる。長い黒髪が僅かに踊る。サラ、サラと音が鳴っている気がする。そんな幻聴が棚引く程度、私と君は無言だった。メトロは俯いて、ただ静かに揺れている。

「腰はもういいの? 足でも肩でも好きなだけ――」

「陽色さんは……陽色さんは、パートナー、とか……いるんですか?」

「彼氏? えーっと……」

 唐突な質問に戸惑う。正幸<マサユキ>との交際は、友人の誰にも話していない。デートしている様子を目撃されたのかとも思ったが、彼とそんな楽しい思い出を作った記憶がない以上は、純粋なメトロの好奇心に他ならないはずだ。隠した方がいい、と判断する脳と裏腹に、彼女の膝上で握られた掌がやけに真剣だったから、私は嘘に失敗した。

「一応は」

 若干の遠回しで答えれば、メトロの肩が小さく震えた。何故か笑い始める彼女にとって、今の問答はどういった意味があったのか、私には知れない。笑い声の意図も伝わらない。私如きに男がいるのが冗談めいて面白いのだろうか。見栄を張っていると捉えられた可能性もある。しかし私の憶測は、全部違っていた。

「くっ、あははは……そう、ですよね。陽色さんみたいに素敵なひとだったら、とっくに、いるに決まってますよね。私何勘違いしてたんだろ。ちょっと優しくしてもらっただけで、もしかしたらって、調子に乗って……あ! 相手はどんなひ、とで、あっ、ごめん、ごめんなさい……」

 手の甲に雫がひとつ、ふたつ。笑ったと思った次の瞬間には泣いている。笑いすぎて涙が零れたならまだしも、狐雨ではなく本降りめいていて、雨ざらしの手が見る間に濡れていく。事情は後で聞くことに決め、私は彼女の頭を撫でた。頼りない柳葉は手の中で脆く形を変える。狙い澄ましたように手を出した私は、酷く卑しくて、不義理だ。悲しみの動機も慰めの言葉もさし置いて、何か、君を撫でる理由を見つけたことを喜んでいる、薄汚い装置だ。私の困惑を察することなく、メトロは訥々、感情を漏らす。

「好きで……すごい、好き、でっ。ただの、スキンシップだって分かってて、も、好き、でした。触ってもらえた日は、一日中幸せで、他の子にも触るのを見たら、や、でした。やだな、こんな、あの、ごめんなさい……陽色さんのこと、好きなんです……」

 最悪だ。率直な感想がこれなのだから、私自身はもっと最悪だった。同性愛という単語が頭の隅から湧き出てくる。知っていたよ。そういう人たちがいることを知った上で、私は黙殺した。だって、怖かった。一度だけ女性同士が愛し合っている映像を見て、憧れを持った自分が怖かった。あれは男性が欲情するための虚構なんだと言い聞かせないと、怖くて、きっと上手に抱き合える自分を想像して、怖くて、男と愛し合えないから同性に逃げるのが、ずるくて、もし同性愛者の子が周りに居たら、私は女の子にまで勘違いをさせてしまう気がして、実際勘違いをさせてしまったらしくて、最悪だった。私が自意識過剰な馬鹿女で、私程度の女に触られても誰も喜ばなかったら上手くいったのに。女を好きな女がいなかったら、恋じゃなくてじゃれ合いで終われたのに。

 気持ちが腐った。

「ああ、そう。それで?」

「えっ? あっ」

 メトロの腕を掴んで引くと、他愛なく私の胸の中に納まった。顔を上げさせる。涙の跡を付けたのは私か。また私のせいか。この子で遊ぼうか。男は正幸で発散させればいいし、女はメトロで用を足すことにすれば、私は誰にも叱られることなく、恋人という名目で彼らを触って、勘違いをさせても、体を払って許してもらえる。

「付き合いたいの?」

「そんな、迷惑ですから」

「付き合うって何?」

「それは、その、デート、したり――んっ!?」

 久しぶりに、女の子とキスをした。男女の唇の違いなんて大差ない。ただ、良く手入れされているのも飾られているのも女性の方で、反応が楽しいのも女性だった。キスの先がない、はずなのも、女性だったのに。女同士でも続きがあるなんて、一生知らないままでいたかった。あんなものを見た私が悪いんだ。全部、全部全部全部私が悪いんだ。君を掻き乱してしまった以上、私は言い逃れが出来ない。

「キスは嫌い?」

「……」

 メトロが目線を逸らす。瞳の色は複雑な輝きで満ちているが、時折私の方を伺い見ることから、そして私の手を振り解かないことから、無言の肯定と推測出来た。私はキスが好き。でも、私はこんな、意地悪なキスが好きだったの? 怖い。怖いよね。私も、君を失う結末が見えて怖い。全然上手くいく気配がない。

「ね、メトロ。恋愛って何だろうね。お互いに相手へ好意を示すことからスタートして、一緒に時間を重ねて、楽しくて幸せで、だけど体も重ねないとダメなんだって。私、セックスが嫌いなの。君はそんな女でも大丈夫?」

「大丈夫、です。今抱き締められてるだけで、幸せです……」

 彼女の腕が躊躇いがちに、私の背中を包んでみる。君は幸せで、私も、幸せなのだから、君のことは可愛い後輩としか思えなくても、恋人ごっこをして、幸せの延長をしてもいいのかな。それは素敵な幻に思える。幻はいずれ消えてしまうものと相場は決まっている。怖い。きっと、メトロは私に優しくしてくれる。私も彼女に優しくしてあげられるつもりでいる。隣にいたら嬉しい気がする。寂しい時に抱き付いたら、何だか安心出来る予感がする。彼女を膝の上に乗せて朗読をしたら、私は、声が震えてしまうぐらいに、幸せになれる、錯覚。「あの頃はああ言ったけど、俺も男だから、やっぱり好きな子としたいんだけど」なんて、みんな言い出すんですが、君は女性だし、そんな怖いことは言いませんか? 私は、怖いから無理だよってずっと言っていたのに、段々、みんな目の色を変えて、目隠しで、とか、電気を消して、とか、優しくするから、とか、結局したがった。うそつきのみんなとは違って、正幸はとても良くしてくれる。私が叫び出さないように口へ詰め物を入れて、抵抗しないように縛り付けて、ちゃんと、乱暴に、私の体だけが目当てなことを教えてくれる。これは間違っている気もするけれど、私への罰みたいで、心が痛くて気持ちいい。私だって体が、触れることが好きで付き合うのだから、不義理なのは変わりない。最初に勘違いさせるのは、いつも私。好きなように触る反面、あれが触るだけで泣きじゃくるのも私。図々しいのは私。悪いのは私。ペニスが怖いのでまともなセックスが出来ません。男を満たせない女は悪女です。私みたいな欠陥品は恋愛などするべきはないのです。

「陽色さん、あ、あああの、泣かないでください。私のこと嫌いなら、気遣わなくてもいいんですよ? そんな、泣くぐらいダメなら、私、あの……?」

「怖いの。馬鹿だって笑わないで。私、ひとに触るのが好きで、それなのに、ずっと、いつも、セックスが怖くて、男のひとに捨てられて来たの。今も、彼氏、いるけど、乱暴にされないと出来なくて、こんな風に」

 露悪だと分かっていても止められなかった。腕まくりした私の肌には、手錠の痕が残っている。同情を引いて、何の役に立つというのか。ほら、メトロだって困っている。幻滅した? 子供と笑顔で遊ぶような、部員を仕切ってまとめ上げるような、君のレポートを手伝うような、飲んだくれて講義を遅刻するような、そんな、普通の大学生の私を好きな君は、淫乱の出来損ないみたいな私を、愛してくれないと思う。怖い。今すぐ君に捨てられるのが怖い。拾われて、期待に応えられなかったら怖い。いつか、体を求めてきたら怖い。失敗して、私が取り乱すのが怖い。

 一番怖いのは、女のひととしてみたい気持ちと、出来なかった時の絶望が怖い。私だって、愛したり、愛されたり、楽しくて恥ずかしいことをしてみたい、なんて、恥ずかしい。最低だ、変態だ、恥ずかしい――。

「陽色さんは、彼氏さんのこと、好きなんですか?」

「……わからない。でも私がベタベタ触ったから、勘違いさせたのは私だから、責任取らないと」

「うーん……責任とか、ありませんよ。私の主観ですけど、女は勘違いさせる生き物で、男は勘違いする生き物です。恋愛は勘違いの塊です。ふたりで気持ちよく勘違い出来れば上々です。どっちがいつ正気に戻るかは分かりませんが、書類取り決めがあるでもなし、泣いた方が負けです。そういう辛辣な、愉快なゲームです。そして、私、その意味不明な男から、陽色さんのこと、略奪します」

 メトロらしからぬ、芯の通った声色で告げる。私は僅かに眩暈を覚えた。君に連れ去ってもらえたら、私は幸せになれるかも知れない。甘い酩酊が生まれる。だけど、これは恋愛ではなくて、君を利用したマスタベイションではないのか。今も、私の手と心ばかりが幸せで、君は引き際を失っているのだと言えはしないか? 考えれば切りがない。こんなに、確かに暖かいのに。

「あのですね……今の、結構いっぱいいっぱいだったんでー……そろそろリアルメマイなんですが……そんな、ぎゅーってしがみつかれたら、うあ、メ、メマイますよ!?」

「私もメマイたい。勘違いしてみたい」

 見上げて呟けば、メトロがふらふら揺れていた。その内蒸気でも吹きそうな赤面ぶりだった。触ってみたい。そっと掌で頬を覆ってみると、可愛らしい温度が伝わってきた。メトロが噤んだ唇にも指を添えてみる。彼女は瞬きの回数を増やして、落ち着かない様子だ。躊躇い、手を引けば手首を掴まれた。メトロの唇が薬指へ吸い付く。小さく差し出された舌が、私の指を彼女色に染める。

「あんまり浮気したらダメですよ」

「君で充分な気はするけど、少しはいいんだ?」

「……三倍触ってくれるならいいです……」

 小指が爪ごと噛まれたのは婉曲的な指きりに思えて、私は「しない」と口にした。手を裏返したメトロは、掌の皺に沿って舐め上げる。くすぐったくて切なくて、私はくぐもった喘ぎを漏らす。途端、メトロの肩が大きく跳ねた。

「あー! 腰、腰が痛いような気がしないでもないんですよね! この辺で引き上げて整体に行かないと、ヤバイメマイかなーって……思うんです、が」

 後ろを向いた彼女の腰に、私はすがって引き止めた。もっとくっついていたい。怖いのを無くして欲しい。上着を捲って腰にキスすると、メトロもさっきの私みたいに囀った。

「陽色さん、私、正直な話むらむらしてきたんで、危ないですよ。あと怖いですよ」

「メトロとなら、ちゃんと出来そうなの。お願い」

「ううう……それ、襲われても文句言えないレベルです。流石に男性陣が勘違いしてもおかしくは」

「他のひとには言ったことないから。こういう気分になるの、君が初めてだから……」

 くたっ、とメトロが尺取虫のポーズになった。腰痛が悪化しそうな体勢にも関わらず、しばらく起き上がる様子がない。彼女の名前を繰り返しながら、私は構ってもらいたくて、お腹の辺りをそっとさすってみる。君を意図的に興奮させているのは間違いないけれど、君にはあれがないから、安心する。上手く抱き合える気がする。ただ、確信がない。自信もない。焦り過ぎの私も、危なくて怖い。

「下、触ってみますか? 陽色さんが試してみたいなら、それでも構いません……そして私の命の保障はありません……恥ずか死します……」

 慌てて両手を万歳気味にする。彼女はへの字に曲がりくねったまま、背後の私を顧みた。何やら名残惜しそうにしているのは、私をどうしていいものか戸惑わせる。尺取虫はそんな私へ微笑みかけると、上半身を起こして、元のメトロノームに戻った。

「私も人並み程度は性欲あると思うんですけど、同性だからあまり無茶をする必要もないし、何となくイチャつくだけでも結構楽しいですよ。陽色さんが怖いエッチなんてやっても、私は楽しくありませんしね。無体メマイです。それとも、出来ないとあなたが不安ですか?」

 彼女の背中と髪とが緩く揺れる。私はそのひと房を手に取り、指でくるくると巻いた。「どうして嫌いなんですか?」。私は黒い綿飴作りにいそしむ。「男のひとのあれが怖い」。塊を引っ張ると、彼女の頭が私の膝上に落ちてきた。「私は怖いって言うより、ウザいです。だったら似た者同士、上手くやれると思いませんか? あ、そっちの意味じゃないですよ!? いや、どっちの意味でもいいんですが……」。鼻の頭を突いてみる。「変じゃない?」。彼女は犬の素振りで指へ噛み付く仕草をしてみせた。「茄子が好きか嫌いかと同じ程度の話です。少なくとも、今は。結婚したいなら海外に行けばいい、子供が欲しければ変化球は幾らでもあります。そして私は、目下、陽色さんがラブラブしてくれれば純粋にメマイですね」。逆さまのキスをしようとしたら、意外に上手くいかなかった。「あのね、君と裸で抱き合ってみたい」。彼女は諦めた私の首を捉まえて、唇も一緒に捕まえた。「大胆ですねー。あ、腰、今ぐきょってなりましたよ!?」。腰を抑える彼女に、ダメ押しのデコピンをする。「今日は、メトロノームのメンテナンスが先かな」。メトロはベッドへ崩れ落ちる。「勝負下着履いて来ないと」。私は彼女の髪を払って、うなじへ唇を宛がった。「可愛いの履いてきてね」。メトロはうーっと唸ってから、恥ずかしそうに返答した。「陽色さんだって、メマイ級のを履いてもらいますよ」。そうして、ふたりして恥ずかしがった。

 君となら、何だか、全部上手くいく気がするよ。そんな勘違いが私を心地よくする。

 ■ ■ ■

 正幸は案外呆気なく別れてくれた。寂しくなったら適当に遊んでやるから、もう来んな。要するに寂しくなんな。私の頭を無遠慮に撫でくる、彼のそういうところは嫌いじゃなかった。私も頷いて彼の髪に触れた。脱色を繰り返したダメージヘアは、鳥の巣みたいにガサガサで、だけど、好きだった。

 メトロとは三回目で漸く最後まで出来た。私は下着を脱ぐ勇気が足りなくて、彼女は私に触れる勇気が足りなかった。それぞれ一回ずつカウントを使ったあと、覚悟を決めたらすんなり進んだ。下腹部がぴったり触れ合うことに感動していた私に対して、「あの……理科の実験で、スチールウールの発火とかさせたじゃないですか? 何だかあんな風になりそうです。色んな意味で」と困り顔のメトロだったから、キスしてもっと困らせた。まだ大切な部分にはお互い触っていない。体も心も、ゆっくり仲良くなればいいと思う。

 私はひとに触るのが好き。異性に触るのも同性に触るのも、どっちが好きか選べないぐらいに気に入っている。また二年前に似た振る舞いを始めた私を見て、それでも、巽は何故か怒らなかった。今度タイマンで飲んで聞いてみたら、君は私を殴るでしょうか。

 けれど、君が殴る前に、メトロに叱られるので(そもそも約束したのは私だ、ごめんなさい)、程々に勘違いと謝罪を撒き散らしながら、私は私の常識で生きていくようだ。不義理ですか。図々しいですか。どこかの君は、私を叱咤しますか。

 呆れたことに、これが私の自然体らしいのです。

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