絵本はもうおしまい
 迷路はもう行き止まり
 正常はもうおしまい
 正常はもう行き止まり――Syrup16g『正常』

【生愛の経常】

 人間は一人で死ぬらしいのだけれど、生憎と今の私は生きているようであるし、手渡された二万円の軽薄な重さ、手渡した彼女の僅かに触れた指、その感触と、脱がされた紺のハイソックス、これは学校の指定の物、どこか遠い放課後の音は吹奏楽器の間延びしたメロディだった、余所余所しい机の硬さに腰掛けて、どうやら私は生きているようである。何を以ってか生命とするかについて、それは堕胎可能の時期や植物患者の臓器摘出を複雑にする問い掛けであり、私の実存が蝶の見ている夢のひとひらに過ぎないのかも知れないとすれば益々の煩雑さを伴う、が、恐らくは常識的な純度で、私は生きているはずだ。推量形が眼に染みるから時々は泣いてしまう。人間は、生きている間くらいは二人にも三人にもなれるのではなかったのか。私はたった今も、一人で現実の律とした寂しさを想う。

「椋<ムク>」

 私の名前を呼んだのは山査子清美<サンザシキヨミ>というひとで、彼女の視線は私の脚へ向けられている、そう、脚へと。私の脚には一時間で二万円の値段が付いており、或いは、清美にとって私の胴体上膊頭部腰部脳、能、悩と言った付属物の合切は定めし余分であり、彼女は私の脚だけを愛している。つまり私は今、一人なのであった。この少女は私の部分への拘泥――フェティシズム――により御せられるのみで、溺愛されるパーツは確かに私の所有物でこそあれど、これを果たして愛と名づけることは値うのだろうか。

「今日も綺麗ね」

 両腕絡ませ、清美は頬を寄せた。私の表情など、私の感情など彼女の興味するものではなく、陶酔のチークダンスは私の脚を使った個人演技だ。揺れる、静かに、情熱を添えて、あなた、脚に頬擦りする。私は一抹の刹那さを抱いて脚からの延長として揺れる踊る。

「ああ……私、こんなに素敵な物、他に知らない……」

 溜め息が肌を濡らす。私は自分の心臓が痛く動悸するのを聞く。三つ編みされた清美の髪が脹脛を撫ぜるに至り、私もまた薄桃の吐息を落とすのだが、もちろん彼女に何らの関心をも喚起することはない。耽溺の眼はひたすらに脚部のみ注視しているのだった。

「体育は無かったのね。疲労による強張りはないけれど……相変わらず緊張してる? ん、震えた。かわいい」

 私のそこが小さく跳ねたものだから、からかい、清美の食指が脛をなぞった。そうして私は歓喜の表現にも似た蠕動を無意識から行う。逃げないように柔らかく捕らえる清美の腕と、囁きの声量に近しいくちづけとが、私を雁字に絡めて離さない。ペディキュアを塗った爪先がしなって桜色の蕾を模す。彼女の唇が触れては吸い、転々と点々と唾液の跡を残していく。肌に残った彼女の蜜以上に、私の口内は唾液に溢れ、声が、漏れそうになって、唇を噛んだ。

「私も、相変わらず飽きないわ。ウチの学校で図々しく闊歩している不細工な棒の群れなら、一瞥の価値もないのにね。椋のココはいつ見てもいいわ。ずっと触れていたい。信奉していたい」

「――っ」

 喋り終えた舌先が顔を出せば、つ、と膝下から昇って来た。私は快楽を押し殺すことに失敗し、詰めた音色を吐き出す。清美は私の唇がどんな仕事をしていようがいまいがお構いないのだが、何か、大仰に声を出すことは憚られる気がするので、私は無意味の努力を一人で嗜む。

 全体、私の脚のどこに彼女が惹かれるのかは知らない。特別に入念な手入れをしているわけでもなく、細くも太くもなく、有り触れた二対だと持ち主は思っているのだし、昔の恋人が私の脚を褒めたかと言えばそんなエピソードは記憶に存ぜず、篠木椋<シノギムク>に欠片でも強い魅力があるとするなら、あの雨の日の離別は幻であって良かったのではないか。……明白な失恋の理由が見つかっていれば、私の辛い時間は、少しは、柔らかいセメントで充足していたのではないか。干からびて乾いた、虚穴の時間だった。頬の痛みを数知れず反芻した。後悔と疑念がひたすらにドラァグされ続け、いつまでも髪が濡れている気がした。傘は足元で行き場をなくして、私は彼女をなくした。

 長い時間と言う万能薬が私を修理した頃、帰路の電車内で軟派、買収、適切には買春を行ったのが清美だった。自身の器量の良し悪しは露知らず、それでも数名のおかしな男性が、私の身体を買おうとしたことや嘲弄の未遂に到ったことはあったものの、セーラー服を着た同性の口から発せられた「二万円でどう?」は目新しく、私は出来心から首を縦に振った。出来心だった。私には誰かの温度が必要であり、女性なら誰でも良かった。どうせ貴女はもういない。

 清美が最初の二万円で要求したのは、私の脚を自由にすることだった。本当にそれ以上のことはなかった。二人でホテルへ入り、天蓋付きの瀟洒なダブルベッドの上、ただただ、私の脚が愛された。薄明かりが彼女の奉仕を静かに照らしていた。丹精なマッサージに始まり、内腿へのキスで締め括られた一時間。性的な接触のあとのように、彼女の瞳は濡れていた。彼女は私の脚をいたく気に入り、また愛させてくださいと、下肢へ深く頭を垂れた。

 清美はあまり私のことを詮索しない。連絡先と住まい、学年と学校、名前、それに多少の添付情報さえあれば、もう、私のパーソナリティを詳らかにする気はなさそうだった。執心は脚にこそあった。そうなると私も質問をし辛くなる。晒したものと同レベルの背景が交換され、口篭り、身体の関係は未だに紡がれている。

 土踏まずを舌が這う。上履きとソックスに保護されていたとは言っても、決して清潔ではない足の裏を、眼を細めて舐めている。愛撫のこそばゆさと性感が紙一重なのと同様に、私は境界線を綱渡りしては呼吸を乱す。下着がスカートの内側で汚れていく。清美が見も触りもしないソコが蕩けていく。

「おいし……」

 官能の色を含んだ言葉が、肌に当たって淡く弾ける、そんな刺激ですら私を昂ぶらせる。時計の長針が一周した時には、私の女性は快楽に濁り切り、持て余された性欲の行き先は、お手洗いで、自室で、浴槽で、一人で、指で、何度も、清美が私の全身を全体を裸体を、愛してくれる妄想で、一人で、片懸想と共に処理されて死んでいく。

 私の親指を食むその口が、もっとたくさんの私を咀嚼してくれたらいいのにと思う。彼女自身の話をしてくれたら嬉しい。私の唇に向かって愛を囁いて欲しい。――私の求める多くは、私の脚に持っていかれる。彼女の愛は私の一部分に略奪される。愛とは? 構造主義による要素還元的手法、部分拘泥、フェティシズムこそが愛の正体であるとすれば、私は今、きっと愛されており、そうして実感がなく孤独に犯される。

「清美」

 救いを欲して名呼びする。彼女は応えずに一方通行の敬愛を与える。私は寂しい快感に涙ぐむ。清美の舌や、唇や、腕や掌は、正しく明瞭に存在しているにも関わらず、接触しているのは身体同士、摩擦しているのは身体同士、繋がりたい気持ちばかり、湖面の落葉みたいにひとりぼっち。

「きよみ、きよみ……こんなの、やだよ……」

 私はストーリラインを夢想する。彼女が私を買ったお金で、今度は私が彼女を買うのだ。あなたを抱き締めさせてくださいと、懇願し、泣き付き、そうした契約を結んだとして、私は、幸せになれるのだろうか。その取り引きは確かに性愛の形状をしている。正常な愛情の匂いはしない。でも、そんな普通をみんな耐えているんだ。言葉のみで愛を伝えるのは限りなく難しい。労わり労わられること、思い遣り思い遣られること、捧げ受け取ること、健全なトレード、ねえこれは、金銭の計上とどこが違うの。価値の交換が好感や交歓に昇華される、としたら、売買ではないのですか。

 私の中身の悲鳴を清美は知らない。今、片頬を流れていく涙の粒を知らない。お金なんて、本当はいらない。優しさと温度が欲しいよ。私の全てを包み込んで欲しいよ。私の全部を見てくれませんか、ねえ、愛してくれませんか。

 何を間違ったせいで自分が壊れかけているのか、分からないまま、秒針の残酷な進行を見つめる水濡れの視線。

TOPへ
NOVELへ inserted by FC2 system