【想いがあふれて止まらない】

■ 一 ■

 ああ恋がしたいナア、漠然と思ってはみるものの、本末の転倒といいますか、恋慕の情は後から湧いてくるのであって、懸想相手の存在より先立つのも妙な話ではあります。もっとも、流行事ですと婚活なんかは近しいように感じますね。愛したい人探したい、独身一念発起隊? 旦那なり家内なり彼氏なり彼女なり、マア、寄り添いたいのは男女そんなに変わらぬみたいでして、そうすると、恋を欲求する状態から入るのに別段の不自然はないかしらん?

 そも、私は本心恋に飢えているのでしょうか。あんなにも感情錯綜する事象に再度身を置く気でしょうか。どうでしょう。恋患いといいますようにアレは病気でして、恋煩いといいますようにアレは面倒事でして、そうして中毒性のある麻薬でして、元気も減喜も色々ございましたが、素敵なことの多かった風に思います。回想の面々<ツラツラ>つらつら書き綴っても宜しいのですが、生憎と文筆持ち合わせておりませんので、裡<ウチ>に秘めるのみ留めます。

 絵は、遣るんですよ。拙いなりに十年ばっかり遣っております。三つ子の魂百までならぬ、七つ子の魂十七まで。百まで、遣れるでしょうか。遣れたらいいナアと薄ぼんやり考えるぐらいには、好きみたいです。好きな物があるなら百年生きてもきっと楽しい。隣には好きな者が居て欲しい、なんて。中々の贅沢です。

 恋が、したいのかな。本当はあなたを追いかけたいのかな。外は雨、湿っぽく蒸す五月です。先々月に描いた一枚画、頬杖突いて眺める五月です。

■ 1 ■

 パジャマが濡れていて気持ち悪かった。それに少し頭痛がする。嫌な夢でも見たに違いない。あまり記憶には残っていないが、《雑貨屋で熊のぬいぐるみに噛まれて死んだ》というダイイングメッセージが残されていた。《痛い》だとか《やめて》だとか、《グルーミー》だとか。森チャックさんに何だか申し訳なかった。

 シャワーを浴びている間、そろそろ夏服に衣替えするべきか悩んだけれど、結局着たのは黒のセーラー服だった。暑さはそれ程苦手ではないし、夏服は手袋が透けて目立つからなるべく避けたかった。冬服でも充分、嫌と言うほど好奇の目に晒された手前、学内では最早意味のない努力かも知れない。真っ黒の制服に同色の髪、化粧気のない顔、香水を付けない肌、それなのに、手袋をいつもしているという理由だけで容易く集団から浮いてしまう。わたしは、なるべく、教室の隅でひっそりとしていたいのに。

 お母さんは今朝も帰って来てはいないみたい。ラップを掛けていた夕飯をそのままレンジで温める。最近取材が忙しい様子で、家に戻る日も時間もまちまちだから、ご飯はいいよって言うんだけれど、わたしはついふたり分作っては、夜のわたしと朝のわたしで食べている。《さみしい》ってテーブルに文字が零れた。

■ 二 ■

「恋<レン>ちゃん」

「はあ」

「新入部員の勧誘ノルマをハイ復唱!」

「うーんと……3人? だっけ?」

 うろ覚えで解答すると、弾裏子<ハズミウラコ>は握り拳をふるふる戦慄かす<ワナナカス>のでした。

「合ってるよバッチリだよ……でもね……『だっけ?』じゃないっつーの! お嬢ちゃん!? 守ってなんぼのノルマですよ!? 営業努力はしましょうよ!? イチかバチか花でも咲かせてみませんかミナセイワッ!?」

「裏子サン、選曲古いね」

「ツッコミどころそこ!? ちゃうやん!? 自分のノルマ未達成に思いを馳せて悔いるところやん!? 恋ちゃんさんよ!」

「て言われてもナア……私そういうの好きくないし」

「好きとか嫌いとか最初に言い出したのは誰なのかしら!? メモリアルが駆け抜けちゃいますよしまいにゃ!? んもう……こう……五月なんよあーた。一匹くらいは雛鳥のがん首捕まえて来てくださいってば……」

「そうねー」

 ひいふうみいよ、ごにんです。夏には引退の三年生まで数えて五人、それが美術部の員数です。裏子が躍起になるのも合点なのですが、マア、藝術屋なんてのは放っといても集まる所に集まって遣るように遣るものなんで、気長に待っていればいいんじゃないでしょうか、とは逃げ文句でして、本当は単に億劫なだけなのでした。

「当てはなし?」

「学年二個下なら」

「まだ入学すらしてない!? アウトー!」

「一個下サン達は誰もウチの学校に来てないっぽいんだよね……うーん……」

 これは事実で、進学先はてんでバラバラです。いい子ばかりだったので、連絡をもらった時の失意たるや相当です。

「したら下手な鉄砲も数打ちゃ当たる理論でだね……過激に刺激かければGUNもハヤク乱れ打ちでだね……恋ちゃんには部員募集ポスターの前で獲物を待つ簡単なお仕事をしてもらうのはどうだろう?」

「せ、生産性低いナア……」

 右手で銃を作って彼方此方ドンパチ撃っていた裏子の、そのマズルが、不意に私の眉間を狙いました。

「それか大穴狙い! 目指せジャックポット!」

「……裏子サンの当て?」

「てわけでもないけどー」

 裏子は机の上のデッサン人形を手に取ると、その両腕を前に倣えさせました。続いて、腕の部分にハンカチを掛けると、手錠を隠された犯人を模します。

「手袋ちゃん」

「変わった苗字だ」

「常ツ字恋河<トコツジレンガ>とかいう名前のひとに言われたくない上に苗字じゃないというね……一年でさあ、見たことない? 常時黒手袋してるパない美人がいるの」

 思案の振りをいたすのですが、一年生にトンと縁のない手前、単なる沈黙に過ぎません。

「うわ、絶対見たことないぞこのひと……とにかくいるのさ、いるんです! 有るさお前の家のそば、言うこと聞かない悪い子は夜中むかえに来るんだヨ!」

「中川翔子じゃない鬼太郎とか引くのよそうよ……もう平成なんだよ……マアいいか。目下のテーマは、その子の勧誘? 美術遣る子なの?」

「知んない」

 肩透かし喰らいました。持ち上げてはみた割に、裏子も件のひとの詳細なプロフィールを用意している訳ではないのです。とすれば、主たる目的は当人ではないのでしょう。

「取り巻きとかシンパ狙い? 手袋サンを取り込めたら、芋蔓で入部する子もいるだろうって」

「それそれ。恋ちゃん分かってるぅ」

 デッサン人形にいい子いい子をされながら、しかし複雑な心境です。無粋ではないかしらん? 藝術は人間に対しスタンドアロンであるべきでして、タレントの有名税で徒党を成すなら、ファン倶楽部でよいでしょうに。

 否、可能性の排除、決め付けは宜しくありません。手袋某が我が部に関心を示したとすれば、本人が藝術のひとであったなら、付随する結果は些事であり、定めし余分な物語です。なんて、都合良く考えてみるのもいいでしょう。

「手袋サンが興味なさそうだったら撤退するよ」

「お、てことは行ってくれるのね!? さっすが恋ちゃん、愛してる!」

 今度は裏子手ずからの頭撫でがありました。彼女の掌はあなたを想起させるには幾分小さくて、逆に私は安心するけれど、こうやって関連付けしているディレマ。

■ 2 ■

 視線が合った、というより合わせた。そのひとは多分、ずっとわたしを見ていた。こういう時の大抵は、困った表情を浮かべて見せることで相手の方が気まずくなってくれるものなのだけれど、彼女は勝手が違っていた。

 視線を合わせた、はずなのに合っていない。彼女は廊下側の窓からこちらを見ている、わたしも見返している。でも彼女はお構いなしに、わたしの観察を続けている。観察、されているのだろうか? 彼女はわたしを見ているのだろうか。いつもわたしに向けられる視線とは、何か、種類の異なるものに感じられる。フォーカス出来ていないカメラに似ていると思った。不思議と嫌な気持ちにならなかった。

「そんで優季<ユキ>も今度行こうよー。……優季?」

 仁美<ヒトミ>は会話を切って、わたしの関心の行方を追った。仁美から見られることに対しても彼女は頓着ない様子だった。

「二年の、確か、常ツ字先輩? 優季美術部入ったの?」

「ううん、どこも入ってないまま」

「勧誘かな? 断ってこようか」

「いいよいいよ! 自分で言ってくる」

 弾みで立ち上がり、わたしは窓際へ寄った。とこつじ先輩は表情を変えずにいる。瞳の中のわたしが大きくなっても、態度は変わらず仕舞いだった。

「あ、あのっ、何か御用でしょうか」

「んー? 描きたいナアって」

 目線はすれ違い、会話も繋がっている気がしない。どうしたらいいのか分からなくて、うろたえる。

「え? あの、それって、ええと、どういう」

「んー……っと、失礼した。ごめんなさいね、不躾だった。美術部の常ツ字と申します。常識、ツルゲーネフ、旧字体で常ツ字」

 改めて眼差しが交わされた。あまり真っ直ぐ見つめるものだから、わたしはそっと斜<ハス>を向く。

「雨舞<アマイ>です、苗字。SWEETじゃなくて、Dancing in the rainで」

「なるほど舞台性がある。いいナア……うん、すごくいい。ね、モデルとか興味ない? あなたを描きたくて仕様がないの」

 常ツ字先輩の手が、手袋越しのわたしへ触れた。普段なら拒絶反応で払いのけるところなのに、わたしの腕は気にも留めていない。「ちょっと!? 無理強いはやめましょうよ! 優季嫌がってるじゃないですか!」

 室内の歓談の声がシンと止む。後ろから仁美が割って入って、わたしへ伸びた手をどけた。常ツ字先輩は介入したわたしの友人よりも、自身の行動に驚いている風だった。じっと手を見つめていた。

「ごめんなさいね。どうにも、よろしくない」

 少し寂しそうに笑い、彼女はひとつ頭を下げた。それ切りで立ち去る。仁美の大声で一時緊張した教室の空気が、また放課後らしい緩慢さを取り戻した。

「大丈夫?」

「え? う、うん」

 大丈夫と問われるようなことは何もされていないのだけど、わたしは相槌を打つ。仁美は廊下を一瞥したあと、安堵めいた息を吐いた。

「あのひと、気を付けた方がいいよ。賞貰うぐらいのすごい絵描くけど、変な噂があるから」

 変な噂? わたしが聞き返す前に、仁美の話はもう、駅前のケーキ屋さんに戻ってしまう。わたしは常ツ字先輩のことを気にしている。

■ 三 ■

 気も漫ろ<ソゾロ>に猫を描いています。スタッドラーのHは相変わらず描き易くて気分がいいのですが、私が描きたいものは猫ではないので煩悶します。線が鬱屈している。腕が退屈している。屈んだ猫がニャアと欠伸して、励ましているのやら貶しているのやら。

 雨舞のご友人に怒鳴られたうえ、裏子にも叱責されてかなりの行き場のなさでした。そうして部室を一日使用禁止と、実際に行き場のなさがオマケなのです。マア描きかけの大物もありませんし、鉛筆とスケッチブックがあれば絵は描けますから、然程難儀してもいないのでした(追記、練り消しもあると嬉しいです)。手軽さの、軽快さの素敵なことです。これぞ鉛筆画屋さんのアドバンテージとばかり内心鼻が高かったものの、裏子がiPadを使い始めてからはそうも言えなくなって来ました。デジタル画すらもフットワークの軽い時代です。

 『未来』について深慮した時、技術的な、科学的な『未来』像を考察した時、私は結構、現在って『未来』だナァと思いますよ。手塚治虫先生が携帯電話の普及を予測出来なかったくらいですし、ハイテクが手近にあって、当たり前にそれを使いこなす現代はかなり『未来』ではないでしょうか。ニュートリノが光速を超えたかは有耶無耶ですけど、技術の進歩は目まぐるしい。そんな中で私は、まだ紙と鉛筆の世界が愛しいのです。

 花壇のヘリで迷い猫と戯れていれば、下校中の女の子が当然寄ってくる訳で、絵を描いている私に気づくと遠慮しそうになる、のを気にしないでねと告げて存分に遊んで頂きます。別段私の猫でもなし、猫を描きたい訳でもなし。主に人間を遣るとは言っても、描きたいひとのアポはなし。残念な話です。

「すごーい、上手ー!」

 猫ではなく私の絵へ興味を持つひともいて、そうなるとまるで公衆へ画力をひけらかしている風で戴けません。絵が褒められるのは重畳ですが、そこに私は要らない。作者は要らない。手と鉛筆と紙とだけの、そういう生命に来世でなることも考えますけれど、マア、面妖過ぎるのでまたヒトがいいです。人間も愛しくて、面白いです。

「良かったらどうぞ」

 スケッチブックから猫を逃がして、覗いていた子に預けました。隅にこっそりと『美術部部員募集中』と認めて<シタタメテ>。営業努力してみたよ、裏子サン。女の子は嬉しそうに微笑んで、丁寧なお礼の言葉を残していきました。

■ 3 ■

 遠目に、花壇で絵を描く常ツ字先輩を見ていた。盗み見るのは良くないと分かっているのに、わたしだって昨日されたんだし、って自分に言い訳した。先輩は猫や絵や他の子に付きっ切りで、校舎の窓辺のわたしには気づく由もなかった。

 有り体に言って、いいひとそうだった。色々なひとが彼女の創作を、極端に表現すれば邪魔しているにも関わらず、フレンドリーに接している。わたしだったら他の場所へ立ち去ってしまうと思う。ひと当たりの良さが、羨ましい。

 少なくとも、仁美に聞いた程は悪いひとじゃない気がする。「常ツ字先輩って、モデルの名目で美術室に連れ込んで、いやらしいことするんだって」「ほんと? でも、先輩可愛いし、その、男の子の方が乱暴したんじゃ」「違う違う。レズなんだって、あのひと。そんなにレズとかいっぱいいるはずないし、先輩が騙して女子襲ってるに決まってるよ」。仁美の意見は随分棘があって、レズビアンのひとを犯罪者みたいに思っている節があった。実際、気持ち悪いとも言っていた。わたしは正直な話、よく分からなかった。仁美の感覚も第一だが、レズビアンという概念自体の理解が足りなかった。女性を愛することも、男性を愛することも、等しく実感が涌かない。恋愛をしたことがないせいだと思う。友達の漏らす「あー彼氏欲しい」なんて台詞も、心の奥底で首を傾げている。

 わたしは、理解者が欲しい。許してくれる存在が欲しい。それを恋人と呼ぶのは、なにか、押し付けがましくて、利己的だ。実用書を購入するような、目的に特化した無粋さがある。加えて、わたしは母親以外にわたしの手を受け入れてくれた人間を知らない。

 常ツ字先輩の手が、描いた絵を切り取って、隣の女の子に渡した。プレゼントされた女の子はとても喜んでいた。――わたしも、あんな手だったら、寂しくなかったかも知れない、なんて、思い違い甚だしい。あの手がわたしのものだったとしても、きっとわたしは、臆病な女のままだろう。目線や接触に怯えているのだろう。

 常ツ字先輩が他のひとほどわたしを脅かさない理由を、なんとはなしに把握しつつあった。彼女にとって、わたしは個人である前に被写体であって、興味は出来上がる絵の方に向き、わたしそのものへの拘泥は少ないのではないか。あの不思議な視線の意味を、わたしなりに解釈した結果だった。現に、何かと話題にされるわたしの手袋を注視していた風ではなかった。手を掴んだ時だって、それこそ手袋なんてどうでも良くて、描きたい気持ちを伝えようとしたのではないか。

「モデルかぁ……」

 呟きを戻すみたいに、口へ手を当てた。題材として分不相応だと思ったし、視線を浴び続けるのは間違いなく苦手なことだった。ポーズを維持するのも一苦労と聞く。まず、仁美に手痛く追い返された先輩が、気を悪くしていたとしたら? モデル云々の話はとっくに消えているかも知れない。

「謝らないと、ダメかも」

 そうだ、描いて欲しいとかそうじゃないとかよりも、明らかに濡れ衣を着せてしまったのだから、お詫びぐらいはするべきだ。

■ 四 ■

 何枚か猫のビラ配りをしている内に、猫も飽きたのか、フイといなくなりました。人波も途切れ途切れ、蛍の光が似合う時間です。裏子に私の奮闘を伝達して、これにて落着という算段立て、鉛筆をケースへしまった折でした。雨舞を見かけました。仮にトレードマークの手袋がなかったとしても、容易に彼女と弁別しました。雰囲気が、綺麗なんです。勿論裏子の前情報どおりに容姿も端麗ですが、まとっている空気に惹かれます。それを絵に起こしたい。彼女を象っている様々を鉛筆に乗せたい。万人の共感得られぬでしょうが、モチーフに対する強烈な動機<モティブ>でした。恋に近しいと称すれば、より広く伝わるやも知れません。

 問題は、初対面の印象で彼女がドン引きしている懸念が否めないことです。ただ、すぐに払拭されました。此方へ近づいて来ます。なにやら申し訳なさげなのが玉に瑕です。

「この前はごめんなさいね」

「い、いえ! わたしの方こそ」

 彼女に謝罪される謂われは皆無だけれど、ご友人の応対のことだろうと、適当に了解いたしました。

「今帰り? 途中までいっしょしようよ」

「あ、あの」

「荷物置いて来るから待っててね」

 部室までダッシュです。先に帰ってしまったらマアそれはそれです。美術部のドアをガラガラ鳴らし過ぎて裏子のジト目を頂きましたが、お詫びは明日、二の次です。鞄引提げ、息を切らして戻りました。雨舞は幸い、居てくれました。

「ちなみに自転車だったら徒歩族として土下座」

「え、と、バスです」

「良かった……この汗は無駄ではなかった……」

 雨舞が口元に手をやって笑いました。愛らしさたるや斯くやです。トークン・ワイプのクリームブリュレを奢ってあげてもいいぐらいです。流石にノンアポ極まりなくて、今日はやめておきます。最寄のバス停を聞いたら私の家と間逆でしたが、内緒にして歩き出しました。

「モデルの件、考えてくれた? やっぱり急過ぎたかな」

「あ、それ、悩んでます……その、それより、友達が失礼しました。それから、わたし、煮え切らなくてごめんなさい」

「んー、気にしないで。私って一部で変人扱いされてるし、マア概ね変人だし、別に返事も急かないし? 描きたいのは本当だけどね」

 露骨に嫌っているひとがいるのもマア、知っています。だからって私が萎縮しても仕方なく、セクシュアリティを始めとした私の構成要素の一々に、好悪は当たり前に付与されます。そこに特筆すべき不満はありません。他人の好みに右往左往するほど、靡いた柳ではありませんもの。

「絵、上手だって聞きました」

「実際に見てもらいたいナア、今度。そしたらモデルになる気も起きるかも知れない、逆も然り。絵は好き?」

 意図しない探りになってしまい、少々失敗したと思いました。雨舞は俯き加減で答えます。

「見るのは好きかも、です。描いたりは、出来ません、けど」

「そかー。本当はね、あなたを美術部に勧誘して来いって言われて会いに行ったんだよ。結果オーライだね」

「描けないのに、ですか?」

「うん。あなたに会えたことに感謝してる」

 ポロっと、既知のフレーズが零れました。これといった機知が含まれているでもない旧知の台詞。恋人が昔、私にくれた言葉でした。

「え、あ、大げさ、ですよ」

「私も実は、大げさだナアって思ったことがあるんだ」

 雨舞は文脈を読み取れず、照れたり戸惑ったりの慌しい気配が伝わります。私は順調に変なひとポイントを獲得していますが、マア、いいんじゃないでしょうか。

「でもね、個人と個人が出会うのは奇跡的な確率で、海辺の砂粒みたいな群からあなたを見つけられて、私は嬉しいよ」

「……あの、なんだか、口説かれてる、みたいで」

「口説いてるよ?」

 札束でモデルを買うのは傲慢不遜の所業、まして金銭払えぬ我が身ですと、持ち出し道具は熱意の他ありません。

「っ! バ、バス、ちょうど来てるので、また!」

「はいはーい。またね」

 彼女はタタと小走りし、一度振り返ってお辞儀してからバス内へ消えました。出発を見送ったあと、私も踵を返します。帰着したなら、今の余韻で絵を描こうと想うのです。

■ 4 ■

 《モデル》《常ツ字先輩》《どうしよう》。排水口に飲み込まれていく黒文字を、それとなく目で追いかける。単語はシャワーのノズルにもびっしりと張り付いていて、最早可読性はなかった。

 良く言えば超能力、悪く言えば病気、正しく言えば『響界<キョウカイ>』、そう呼ぶのだと教わった。自意識が身体からはみ出して、外界に直接作用する機能、過程を省略する才能。そんな説明はわたしに何の慰めも与えなかった。

 触れるものに思考が羅列される。それが無機物だろうと有機物だろうと、ある程度の質量が伴えば無差別に印字される。短くて10秒、長くて10分経てば消える。思い通りの制御は利かない。手袋をしていれば効果を失くす。確かめたのはそれぐらいで、充分、絶望出来た。手袋のない生活は、家の中でだけ、母とだけ許されている。許したのはお母さんだった。わたしの奇病を受け入れてくれた、から、15歳のわたしはここに居られる。

 《お母さん》《ありがとう》《ごめんね》《さみしい》《さみしい》《さみしい》。寂しさばかり渦を巻く。こんなにお母さんべったりだと将来絶対困らせる。困らせてしまう。勉強も運動も交友も、今やれることはひと通り、努力しているけれど、わたしの本音は胸の中の心臓よりもずっと薄いものでしか隠せない。そうして正直者が生きてはいけないのと同じ、薄皮一枚捲れば爪弾き者になる。

 《常ツ字先輩 は やさしかった よ 大丈夫大丈夫だいじょ また失敗 する失敗す る失敗失敗失敗ししし》。

 悲しくなって見るのをやめた。考え事を続ければ止め処がないのと同様に、わたしから流れ落ちる文字にも際限はないのだ。シャワーを切り上げて浴室を出る。

 多分、わたしは先輩の好意をダメにしてしまうと思う。また失敗すると思う。手袋を取って欲しいとリクエストされたら、もうそれだけで簡単に終わる。また『てぶくろおばけ』になってしまう。

 上手に独りになるためには、彼女の絵を見に行くのが一番ではないか。そうして、まるで、画力が気に食わないとでもいう風に装えば、彼女も諦めてくれるだろう。わたしも諦められる。諦めたい。

 理解を求めるのも拒むのも、こんなにも辛い。

■ 五 ■

「Oooh きっと来るきっと来る季節は白く!?」

「裏子サン、せめて3Dの方にしよ、う、よ?」

 突然ワンフレーズを吐き出した裏子、其方を一旦向いたあと、視線の行く末を追ったならば、ドアの所に雨舞が立っているのでした。

「恋ちゃんやったね大金星だね! うっわ間近で見るとヤバイ可愛いなにこれ同じ本数の染色体で構成されてると思えなくて危険ですショートとチョコそこに特に意味はない!」

 裏子の勢いに対し、雨舞は文字通り退いていました。助け舟を出さないと遁走免れぬ事態です。

「こんにちは、雨舞サン。来てくれてありがとね」

「あ、えっと、こんにちは」

 私の声と姿を認めると、雨舞は此方へ駆け寄り、私の陰に隠れました。早速裏子に苦手意識を持ったようです。大変に健常人の判断でした。

「……扱いの違い酷くね?」

「裏子サンのテンションに着いていけないコも世の中には居るって話。絵を見に来てくれたのかな。ごめんなさいね、迎えに行ったのだけど入れ違いになったみたい」

「いえ、その、お手洗いに行ってて、こちらの方こそ、あの」

「うーん……うん? 入部するって雰囲気じゃない……カナ? ダメカナ?」

 脳裏に描いていた図とそぐわぬ様子で、裏子は少々の疑義を抱きます。正しく現状の説明をいたしました。

「モデルのお願いをしてるとこ」

「デルモ!? ジーマー!? いいないいなにんげんっていいな! おいしいおやつにほかほかごはん!」

 雨舞の戸惑いが色濃く肌に伝わりますので、ソッと手を引いて逢引と洒落込むことに決めます。

「準備室で展示会してくるね」

「ほいよーい。あ、終わったら鍵かけといてちょうだいな。ダンテ持ってきたから開けっ放しにしとんのよ」

 パスされた美術部のマスターキーをキャッチし、もう一方の手で雨舞をエスコートします。彼女がつっかえつっかえ歩くものだから、大分歩調を緩めました。何気に指を絡めてみたりもしました。

「びっくりしたでしょ? 裏子サン、マイペースだもんね」

「いえ、その……はい」

「いいひとなんだよ。一回ね、酷いスランプになった時、あのひとに助けてもらったもの」

 当時は深刻でしたが、今や思い出し笑いするくらいには、裏子らしからぬ青臭い講演と、らしい真っ直ぐな後援でした。私が過去を望遠して可笑しみに喉を鳴らせば、雨舞も幾分表情を和らげました。

「スランプ、って、常ツ字先輩にも、あるんですね」

「なさそうに見える?」

「余裕、ありそうだから。あ! 失礼な意味じゃ、なくて」

「うん、ありがとね。余裕かー……そっかー……裏子サンみたいなテンションでお願いした方が、モデルになって欲しい気持ちアピール出来るかな」

 見上げた雨舞は顔赤く、今くらいがいいです、消え入りそうな声でそう告げたのです。繋いだ手が小さく揺れました。私も正味の話、今の空気が心地良かったりします。

「さて、ちょっと距離はあったけど、ここが準備室」

「こんなところ、あったんですね」

 廊下に突き出た部屋名札には、『美術準備室YEAH!』とグラフィカルな文字で色取り取り書かれています。英文字の窮屈そうな具合はご愛嬌、裏子の魂の一筆でございます。

「去年から、空き部屋を余計に貰ってね。部員5人で大層なものだけど、マア、顧問の先生が美術室を整理したかったって言うのもあるみたい。小物大物が沢山あったしね」

 戸を解錠して引けば、古物特有の甘い匂いが香りました。経過した時間の残滓。雨舞も目を細めます。

 六畳ほどのスペースに三面のキャビネット、押しのけるように分厚い木机が鎮座しており、数個の石膏像が並んでいます。画材や画自体、整頓されて壁のキャビネに収まってはいますが、それでも雑多多様、幾許かの詰め込まれた感は否めないのでした。部屋の隅に立てかけられたイーゼルのように、銘々が自分の居場所を努力して探したのでしょう。

「机の上に座ってていいよ。椅子がなくてさ、この部屋」

 私の指示を受けながら、雨舞は思案で立ち尽くします。私は手早く自分の作品を見繕い、それらと共に机へ腰を下ろしました。ほら。掌で自らの隣を勧めると、漸く彼女も倣いました。

「拙作がどんなものかと申しますと、斯様に、鉛筆描きの人模様でございますね」

「わあ……」

 ふわり、雨舞の感嘆が踊りました。面映いやらこそばゆいやらの気持ちが、一緒くた私の中にも舞い上がります。

「鉛筆ですか? 優しくて可愛い……」

「そそ、鉛筆画。鉛筆なんて精々模試のマークテストくらいにしか使わない道具だけど、なかなか奥が深くてね。メカニカルペンシル、あれはあれで便利だとしても、太さや濃淡、線の強弱を表現するなら、鉛筆は優れた器械だよ」

「そうですね。線の表情が豊かって言うか、なんだか素朴で……好きです……」

「こっちも見る?」

 ドレスルームでお客様にする風に、別の洋服を紹介してみます。一枚目は溌剌とした女生徒の笑顔、二枚目は雨垂れにて佇む姿です。

「あ、雰囲気、重たいですね」

「憂いでしょ。丁度モデルさんも物思いしてた時期みたいで、正直被写体になってる場合でもなかったってあとで怒られちゃって。描かれる側も一苦労だナア」

「……絵で、内面まで描写出来るんですね」

「そうでなきゃ、写真かコピーでいいと思うの。写真は語弊があるか。あれも絵画に近いジャンルだし。とは言えただ漫然とした写実なら、今のご時勢デジカメでも携帯カメラでも、誰でも、パチっと、簡単に出来るじゃない? 私がやりたいのは、こう、空気だとか雰囲気だとか、三次元空間とズレたところにある曖昧さを掴んで、平面に閉じ込めたいの。……抽象的かな、ごめんなさいね」

「あの、わかります。言いたいこと、なんとなく」

「ありがと。ねえ、これは――」

 出るわ出るわ、賞に応募した額縁入りからフィキサチーフを掛けていないエチュードまで、一年分の私をお披露目しました。雨舞は律儀にひとつずつコメントをくれて、押し付けになっていないことを保障してくれました。

「――と、ひと通り。これらが私。今あなたを描きたい、私の過去。如何でしょう」

「その、すごく、て。だからわたし、務まらない、かも、って」

「務まるとか務まらないとかよりも、あなたがいい。私は、あなたがいいの」

 祈るように縋るように、信奉のように彼女の両手を包みました。彼女の瞳には翳りがちらつきます。

「でも、わたし、こんな、ですよ」

 彼女が何を以って自身を卑下するのか、私は了解しかねました。感性が豊かな人間は素敵です。まして静けさの似合う美女なら、尚のこと。当初の予想より人間味があって、少し臆病な所も却って可愛らしいと思いますし、惹かれます。

「そんなあなたを描きたいのに?」

「これ、全然気にしないんですね。先輩の絵の中で、これはどんな描かれ方をしますか」

 私達の間には、手がありました。手袋に隠された彼女の手がありました。『手袋ちゃん』、忘れていた訳ではなく、看過した訳でもなく、本心、特別気になるものではなかったのでした。そんな露骨な記号が欲しくて、あなたを描こうと決めたのではない。

「私の絵の中に、あなたの手袋はないよ。第一、断言すると、少なくともあなたの手は私に描かれたがっている。違うかな」

 直感でした。私が握っている部分が、私へ訴え掛けているようにも思えました。藝術屋特有の妄執だったとしても、私には真実でした。

「……魔法使いみたいなこと、言うんですね」

「魔法くらい使えないと、女子高生遣るのもしんどいでしょ」

「ふふ、何ですかそれ」

 安らいだ口調で雨舞が問いました。要点を外さなかった、私も気を抜きかけた途端、彼女が急に私の手を振り解きました。

「なん、で……ちがっ、ごめんなさい!」

 謝罪ひとつ、慌てた素振で退室いたしました。かなり急激な置いてけ掘です。反射で伸ばした右手も、行き場を見つけられず困り果てております。

「やっぱり外してたのか……なんだろこれ」

 右手の甲に、書いた覚えのないメモ書きがありました。《きらって》。指示形です。右利きの私が書いたものでもなさそうで、裏子の悪戯書きにしては字体が異なります。試しに左手でなぞろうとすると、左手の甲には《きらわないで》とあります。

「なるほど、恋だナア」

 実直な感想を述べたところ、筆で掃いたように文字は消えていきました。親切な造りの魔法みたいです。練り消しも要らなければ、手が汚れることもありません。

 そうして私は、準備室の片づけを始めるのでした。

■ 0 ■

 床いっぱいの《ごめんなさい》を、クレヨンの太さと筆跡と、拙さと、悲しさと、涙がぽろぽろ零れて、お人形も塗りつぶされてしまった、遊び相手はもう去って、幼いおばけは所在なく、消え去りたい消え去りたい、過ちに黒いてぶくろをして、言葉の海で所在なく、ただ消え去りたいごめんなさい。

■ 5 ■

 床いっぱいの《ごめんなさい》を踏みしめて、シャワーを浴びに行く。近く遠く雨音が聞こえてくる。わたしは天候に反して乾いていた。

 最初に失敗した時の夢を見た。昨日の失敗に釣られて、わざわざ思い起こした自分が可笑しかった。教訓にしては遅過ぎる。滑稽だった。

 常ツ字先輩は、周囲に吹聴しないだろうと思う。それは充分に幸せな予想図だった。悪意まみれになるよりはマシだ。先輩がわたしの書いた文字に気付かなかったなどという、甘い空想は捨てるべきだ。沢山の期待にろくな結果はない。

 雨音をシャワーで掻き消す。心の中の色々を流す。水に混じってタイルへ言葉が落ちていく、のを無視する。

 無視するのが一番だった。モデルなんて最初から無理な話だったのに、浮かれて、期待して、台無しにした。手袋から文字が溢れ出したのは始めてだったから、よほど先輩に対して好感を持っていたのだろう。想いがあふれて止まらなかった、せいだ。無遠慮なわたしのせいだ。

 《さびしい》《さびしい》《さびしい》。せっかく仲良くなれそうだったのに、それだけで良かったのに、距離を間違って失敗した。単なるモデルとして、彼女の題材の一として役目を果たせば良かったのに、でもそれだと仲良くはなれなくて《さびしい》。いや、モデルの話だって断ろうと思っていたのだし、彼女の絵は貶すつもりでいて、だのに、感激してしまってわたしは馬鹿だ。《さびしい》。けれど、素敵だった。拒絶の材料に利用するのが躊躇われたぐらい、否定の文句を紡げなかったぐらい、素敵な絵だった。《さびしい》。常ツ字先輩も絵と同じで、素敵だった。

 『私はあなたがいいの』。真摯な目で語りかけた。他のひとと、あんな風に見詰め合ったことはない。そんな言葉を貰ったこともない。《うれしかった》《優しかった》。

 《軽蔑されたくないからおばけ扱いされたくないからもう止めたい嫌われたい嫌ってもう嫌われた 好かれてた かな 好きだった の かな わたしは わたしは》。

■ 6 ■

「雨舞サン」

「あ……」

 下駄箱で常ツ字先輩に呼び止められた。無視を決め込もうとして早速失敗する、愚かさ。懸命に足を動かそうとするのに逃げ出さない、矛盾。

「その、昨日、勝手に帰っちゃって、ごめんなさい」

「んー、それね、私すごく怒ってる。腸<ハラワタ>煮えて焦げ付くくらいだよ? すごいよ?」

 脅しの割に、ゆったりした笑顔と態度で、裏腹に怒りが渦巻いている風にも思えなかった。

「え……と……」

「今日は予定ある?」

 付き合ってよ。何でもないみたいにわたしの手を取って、ゆっくり、どこかへ進んでいく。

「先輩、あの、わたし、わたし」

「魔法使いなんでしょ」

 小声で囁いて、悪戯っぽく笑った。明日の授業割でも告げる気軽さだった。

「実は私も魔法が使える、としたらどうする?」

「えっ」

 血が目まぐるしく体の中を走り回る。こめかみの辺りが熱くなる。先輩が、先輩も? 単に話を合わせているにしては、やけに落ち着いている。

「私の魔法も見せてあげるからさ、おいでよ」

「あの、えっと」

「おねがい」

 耳元で言われると、わたしは知らず頷いていた。先輩の友達とは種類が違うけれど、先輩だって随分マイペースで、しかもわたしは、そのペースに簡単に乗せられる。

 連れられたのは美術準備室だった。雨空のせいで幾分暗かった部屋は、机の上にドーナツ状のクッションが置かれている。他には、パイプ椅子と、架台に据えられた画用紙。鉛筆入れ。

 カシン。先輩がドアをロックした音だった。拘束力のない内鍵にも関わらず、わたしは少し不安になる。

「強引なのはあんまり好きくないんだけど、雨舞サン、逃げちゃうもの。捕まえとかなきゃ。ということで観念して……」

 先輩が密着する。わたしはつい、先輩のあらぬ風評を思い出して、目を瞑った。続く言葉で肩の力が抜けた。

「モデルになって?」

「先輩たら、そればっかり」

「ごめんなさいね。でもほら、今日はサラっと描くし、三十分も貰えれば済むから、ね?」

「魔法の話、は、どうするんですか?」

 止せばいいのに、話を蒸し返す。彼女はパイプ椅子に腰を沈めて、鉛筆をくるくる回す。

「それも三十分後のお楽しみ。さ、そのクッションに座って、楽なポーズしてみよっか」

「あの」

「雨舞サン? 私の腸があぶらかすみたく香ばしくなる前に言うこと聞いておかないと、もー恋河サンてば半端なく怒るよ? 怖いんだぞ、ガオー」

「れ、れんがさん?」

 全く怖くない常ツ字先輩の、名前らしきものを呼んでみる。彼女は応え頷いた。

「常ツ字恋河って名前なんですよ、雨舞優季サン。それはそれ、ささ、どぞどぞ」

 なし崩しで机に上がり、クッションへ座る。いわゆる女の子座りになった。スカートが捲くれていないのを確かめ、自然、股の間に掌をつく。

「手は、楽?」

 先輩が指摘するのは、わたしの手の姿勢そのものではなく、きっと手袋のことだった。

「これ、外すと、嫌われます」

「私のこと好きになってるのも伝わっちゃうし?」

「!?」

 傍から見れば大した自信家でも、わたしにしてみれば確信を突いていて、面食らった。慌てふためくわたしをよそに、先輩は語る。

「いいんじゃない、素直で可愛くて。私も雨舞サン好きだよ」

 軽薄ではないけれど淡白な、常ツ字先輩の言葉。それでわたしは益々混乱する。

「さらっと、言う、んですね、そういうこと」

「んー、結構ドキドキしてるよ? 聴く?」

「え、あの――」

 先輩も机に乗って、わたしに擦り寄る。四つん這いの片手がわたしを掴んで、自らの胸元へ引き寄せた。柔らかい膨らみの向こうに、鼓動が聞こえた気がした。

「伝える方法は、多いに越したことはない。そう思わない?」

「伝えて、大丈夫ですか?」

「伝えるように出来てるもの、私たち」

 先輩はわたしの頭を撫でたあと、少し離れて背を向けた。わたしは二度、三度迷ってから、手袋を脱いだ。ひたりと机に触れた。

 《《《》》》。細波めいて広がった。木机の表面を文字が覆い尽くして、先輩にまで少しずつ昇っていく、のを見て慌てて手を引いた。

「こういうひとも、いるんだね」

 先輩は、彼女の掌に付いた文字を読んでいるみたいで、しかしわたしにその内容は不明だった。ひょいと机を降り、椅子へ座り直す。

「手、突いててもいいよ。動いたりするのもあんまり気にしなくていいから。じゃ、描くね」

 呆気なかった。重大な秘密を打ち明けたつもりが、常ツ字先輩はどこ吹く風、創作活動に突入している。先ほどのように心情を隠しているのだろうか。

《話掛けても大丈夫かな》

「声でなら。雨舞サンの言葉、いっぱいあり過ぎて拾うのが大変だもの。色んなこと思ってるんだね」

 先輩の投げかけを受けて、また文字が増えていく。自分でも薄気味悪いぐらいに、机上でうねって、内面を吐露している。鉛筆の音は淀みなく、微かな雨音を縫って鳴る。

「先輩。わたしのこと、怖くないんですか?」

《嫌われてないのかな》

「ふふん、恋河サンの方が怖いんだぞーガオー」

《先輩は怖くない》

「……怖いんだよー。女なら見境なく襲うケダモノだって一部で評判でね。マア、ないなーって。そんなん好きな子だけに決まってるじゃんね?」

 先輩の非難は、見境無いという批評へは向けられているが、恋の相手が女性だということに関しては肯定的だった。

「あ、その、先輩は、女のひとが好きなひと?」

「そだよ。あなたは?」

「わたし? あ、どうなん、でしょう」

 先輩みたいに断言するほどは、女性を好きかどうかは分からなかった。まず、自分の『好き』が、先輩の言う同じフレーズとニュアンスを共有しているかどうかが疑問だった。

 《常ツ字先輩が好き》《好き》《大好き》。それでもわたしの文字は、彼女への好意を明け透けにする、なら、どうせなら、言葉を口にしてみたかった。

「常ツ字先輩が、好き、です」

「ありがと。好きっていいよね。言っても言われても、幸せな気分になれる。うん、やっぱりいいナア。……私ね、二個上の先輩と付き合ってたんだけど、彼女が卒業したのと一緒に振られちゃって。次の恋を探してるような探してないような、ぼんやりした感じが、あなたを見たら吹き飛んだの。最初は勿論、モデルになって欲しい気持ちが強かったけど、なんだか、あなたと恋がしたいみたい。というかもうしてる」

「でも、わたし、こんなで、迷惑、かも」

「迷惑とかないよ。第一、あなたを長々座らせてる私が既に大迷惑」

「そんなこと、ないです。先輩に描いてもらえて、嬉しいです」

 《本当に嬉しい》。逃げたり、臆したり、貶したりしないで、わたしをちゃんと見てくれて、描いてくれるのが、《嬉しい》。

 先輩の鉛筆が走る。利き手の小指の先を紙に寝せて描く仕草が珍しくて、わたしも手で真似してみる。変な感じがして、描き辛そうだ。

「筆圧を二点で拾ってるのね。鉛筆の先と、小指の先。その感覚を調整して、線に強弱を作るの。たまにお箸でもやりかけて、苦笑いするんだけど……マア、面白いよね、手って。ヒトが四足歩行を辞めたのも頷ける。わたしの手は色んなことが出来て、あなたの手も、色んなことが出来る。ふたりで手を繋いだらもっと可能性が広がる。そういうの、素敵だナアって思うよ」

 先輩が手を引いてくれたら、わたしにも、何か出来る気がして、胸の中に温かさが広がる。

■ 7 ■

「はい。私の魔法」

 先輩が提示した作品を見る前は、鏡に映った自分と向き合うような気分になるものと考えていた。全く見当違いだった。

 絵の中のわたしは、幸せそうだった。わたしの知らない笑顔を咲かせていた。座り込んだ机には文字がある。わたしの筆跡でも、わたしの言葉でもない文字がある。

 《優季って名前可愛いよねー》《肌綺麗》《苦労したんだろうな》《小動物可愛い でも身長負けてる》《ぶっちゃけ惚れてます》《手が綺麗過ぎる! ペロペロしたい》《ケーキ食べに行こう!》《もっとあなたの絵が描きたいのです》《ところで実は彼氏とかいないんだろうか。いいんだろうか》《おなかすかない?》《私ビアンだけど、いいんだろうか》《ちょっと眠そう?》《ウエストが理想》《あなたと恋をしてみたい》《着物! 今度着物着てもらいたい!》《好きです》。たくさん、たくさん、彼女の言葉が描いてある。

「雨舞サンの魔法、私も使えるよ。魔法使いだって話信じた?」

 わたしは、何度も頷いた。涙と文字が、想いがあふれて止まらない。先輩、ありがとうございますって、声と文字で、たくさん、お礼の気持ちを伝える。

「うん。雨舞サンも、描かせてくれてありがとね」

 先輩はわたしを抱き締めて、頑張ったね、と言ってくれた。その言葉が三十分の時間よりも、もっと色々な事柄へ与えられた気がして、ますます泣いてしまう。

 わたしの魔法は、もっと巧妙な鉛筆の魔法によって、包まれて、許された。

■ 六 ■

 という、美談で終わる気満々のビアンだったのですが、多感な十七の春が何事もなく終わるはずもないのでした。切っ掛けは雨舞の些細な指摘です。

「先輩……あの、ここ、どういう意味、ですか?」

 私が画材を片付けている間、始終絵を見て感慨に浸っていた彼女は、思いついた風に私の記述をひとつ指差したのでした。

《手が綺麗過ぎる! ペロペロしたい》

「あー……見たまんま?」

「その、舐めたい、って意味……?」

「うん。あわよくば甘噛みまでしたい」

 沈黙ゲットです。いい雰囲気が迷子になってて可哀想です。だって、私だけ嘘吐くのは不義理じゃあありませんか。思いの丈を率直に連ねたならば、そこにワンペロ入る程度は仕様です許容です業です。駄目かしらん?

「しても、いいです、よ?」

 アポゲットです。なんとマア。

「雨舞サン、もうちょっと貞操を大事にしよう」

「え? ダメです、か」

 勇気を出したのに当人よりの否定が戻って来て、彼女はシュンとしょげます。堪らずフォローに回るも泥沼です。

「駄目くないよ! どちらかと言えばイイと思う……あー、うん。マア、一回されてみる?」

「……はい」

 意味合いを把握していない彼女を再び机に座らせて、手元の薄布を脱がせました。黒の下から真白い肌が覗く。寄り添い、手の甲を撫でさすります。私の指に何事か文字が伝わるけれど、切れ切れで良くは読めません。

「あ、あの、舐めたら、その、先輩に文字が」

「気になる? そしたら目隠ししよっか」

 自分のスカーフを抜いて、彼女の目を覆いました。次いで、唇を貰いました。触れる程度に、軽く。

「え、今……んっ」

 わざと吸い音立て、小指の付け根へ口付けます。指の腹から先端にかけて、唇で進んだあと、小指自体を口内で包みました。ク、と折れた関節を優しく噛み、指先を舌で愛撫します。

 雨舞の空いた手が、自身の口を塞ぎました。隙間からは控えめな、甘い音色が聞こえます。私が彼女の生命線を舌でなぞると、一際綺麗に鳴りました。手首を二度三度舐めて、強く、吸い上げ、一旦解放しました。

「いやだった?」

 しなだれかかって問うと、彼女は首を横に振ります。それが否定か肯定か、分かってはいるのですが、少し意地悪をしました。

「じゃあ、良かったんだ」

 一間挟んで、小さく、頷きました。お姉さん好みの反応過ぎて軽く死にそうです。

「こっちもしてあげるね」

 口を覆う手を優しく握り、代わり私の口へやります。舌先で少しずつ、私の跡を増やして、彼女の肌を占拠していきます。

「せん、ぱい、だめ……」

「駄目? していいって言ったの、雨舞サンなのに……」

「ふぁっ」

 髪の隙間に見えた首筋があんまり美味しそうだったので、つい、噛み付きました。白くて、犬歯を立てたらそれだけで血を流してしまいそうな、彼女の柔肌。無論の甘噛みです。

 ひくん、と肩が震えます。倒れないように両腕で抱き留めて、絡め取って、首へ薄く歯型を付けます。

「あ、ごめんなさいね。手だけの約束だったものね」

「いえ、その……んんっ」

 朱が差した頬を横目に、彼女の手を弄びます。形を、確かめるように、指で掌で撫で続けます。

「雨舞サンのここ、すごく触り心地がいいよ。肌理細かくて……ずっと触ってたいくらい……」

「わ、わたし、も、触られたい、かも、です……」

「ほんと? 嬉しい」

 改めて許可も出たことで、指遊びの親密さに拍車がかかります。私の唾液とは違う、彼女自身の汗でしっとりと濡れていく掌。浅く繰り返される呼吸。目隠しを紐解いたならば、瞳は涙で潤っていることでしょう。

 ――と、次第に本腰を入れ始めたところで、私も流石に冷静になりまして、名残惜しくもお姫様の手を離すのでした。

「という風に、手でも気持ちよくなれるというお話でございました。えーっと、これ以上やると私もオオカミになっちゃうので、今日はこの辺にしとこ?」

 スカーフを解き、元通りに巻こうとしました。ちらと雨舞の表情を見遣れば、蟲惑的な艶を宿しています。誘惑されたなら、私でなくとも襲い掛かること必定でした。

 そして先方に襲い掛かられて、私は一瞬、事態を把握し損ねました。硬い木の感触が背中にあって、なるほど押し倒されたのだろうとまでは考えたものの、さて、誰が私に覆い被さっているのでしょうと。視界の中で見知った美貌が大きくなっていくに連れ、私は了解いたしました。瞼を閉じました。

 唇と一緒に、雨舞の全身の温度が緩やかに降り注ぎます。ぎこちないけれど、精一杯の愛情を感じさせるキス。彼女の両手が私の対を探し当てて、互いの両手両手が結ばれ合う。心臓付近も重なり合って、最早どちらの心音か知れないそれが、トクリトクリと響いています。

 外は雨、湿っぽく蒸す五月です。彼女のスカーフを取り去って、私はもう一度、恋をする。

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