【小箱】

 二十七歳になったんです、さっき、それで小説っていうのを書いてみようと思ったんです。わたしの妹っていうのが、どうも、小説を書いているらしくって、もしかしたらわたしも書けるんじゃないかな、って。中学生の頃に、確か、読書感想文を書くのに使った、四百字詰めの原稿用紙が勉強机の棚に立てかけられていて、ホコリっぽい表紙をめくってみれば、丸い文字の跡がうっすら残っていました。

 つまり、そうなんです。あの頃のわたしが下敷きを使わない程度にはずさんであったとか、冊子とじの原稿用紙を買う程度に保険をかける主義であったとか、今のわたしが帰郷しているとか、そういうことです。幼いわたしの保険は、今になって、どうやら、役に立つ気がしないでもないのでした。

 さて、と、イスに腰かけてみて思ったことには、サイズがてんで合わないんですね。無理もないです。わたしはやせました。すごく、たくさん、がんばって、やせました。骨みたいになりました、いっとき。あれは病的なダイエットでした。病気のわたしがますます病気になりました。出来ればしない方がいいんです、ダイエットなんて。けど、「ダイエットなんてしなくていいんだよ」と言う男のひとは、信用したらだめです。あのひとたちは、高校生時代から今までわたしに言い寄ってきたあのひとたちは、多分、中学生時代のわたしへ、そんなキレイゴトを言いませんよ。やせろって、思ってるんです、本当は。抱いて重くないように。乗せて重くないように。まあ、わたしは男のひとに乗ったことがないので、知りませんが。

 逆に、「ダイエットしろ」と言う男のひとは、デリカシーがないです。わたしの中学生生活は、おおむね、遠回しにそれを言われ続けたみたいなもので、とても、とても傷つきました。

 ハム、でした。もちろん、ハムスターのハムではなく、あの、タコ糸でがんじがらめに絞り出されて、そのくせ、まだ膨張する気概に満ち足りているような、自己主張の強い肉のかたまりが、わたしのあだ名の由来だったんですよ。男子は、あ、男子っていう言い方はちょっと懐かしいですね。あの頃、中学生の頃は、まだみんな、男子で、女子でした。高校生になると、少し浮ついたニュアンスを交えて、異性をオトコやオンナと呼ぶようになりましたが、今の子はどうなんでしょうか。少なくともわたしにとって、男子が男子だった頃は、酷かったんですよ。ブス、とか、ハム、とか、ブタ、とか。いっぱい言われて、いっぱい傷つきました。友達は慰めてくれましたが、みなさんは知っていますか? みじめなひとっていうのは、優しくされると、ヤサシクサレテルワタシにコンプレックスを感じて、また落ち込むんですよ。救いようがないから、そういうひとは、いないことにした方がいいんです。でも、やっぱり、助かりたいし、助けてあげたいのが、人間なんでしょうか。

 当時の友達は優しかったです。ケイが悪いことしてるわけやないし気にせんでいいやんと、確かこんな風に言って、わたしを励ましてくれたのでした。男子へ怒鳴り返す、勇気のある子もいました。わたしは、色々勘ぐってしまうことが多くて、そういった友達の心配りさえ、見下されていると感じたり、憐れみを受けていると感じたり、無駄に多感でした。マイナス方面に豊かな感受性なのでした。良く泣きました。涙の源泉も不必要に豊かでした。

 泣きたくなかったんですね。ずっと泣いているのは嫌だったんです。だから、やせようって思いました。ダイエットを強要する資格があるのは、お医者さんと、自分だけです。自分。自分へ向かって言う言葉なんですよ、「ダイエットしなさい」って。そしたら、ちょっと自信が持てるからって、そっと自分に呟いて、がんばるための言葉です。度を過ぎると、見苦しいからやせなさい、好かれたいならやせなさい、やせなさい、やせなさいって、もう、そればっかりで、まるで体重が減るごとに幸せが増えていくと錯覚するような、マヒで、呪いで、中毒です。自意識が過剰なんですよ。他人の体型をいちいち気にしているひとが、そんなにいるはずはないのに。わたしは、全世界の人間からハムと呼ばれていると思いこんだ、被害妄想の持ち主だったんです。ハムじゃないよ、蛍子だよって、泣きながら、誰かに、見えない誰かに訴えかけていたんですね、心の中では。それが伝わらないから、残された方法は、やせることしかなかったんです。

 一年です。人間は一年あれば、よくも、わるくも変われます。わたしは中学生最後の年に、学校へ太ったわたしを、みにくいわたしを置き去りにしようと決めました。高校デビューするつもりでした。おかしいでしょう? 普通、高校デビューっていうのは、ちょっと悪ぶった自分になってみようとか、かわいい系を目指そうとか、友達をたくさん作るとか、そんなことを、中学校を卒業してから高校へ入学するまでの、誰にもバレない時期に決意するものだと思うんです。ただ、わたしの場合は、心や体にお化粧しても変えられる類の規模ではありませんでしたから、一年、かけました。いろいろ、試しました。

 ダイエットの方法がどれぐらいあるのかは、わたしが説明する必要もありませんよね。たくさんです。みんなが関心を持つトピックスには、嘘も、ほんとも、うわさも、群がるひとの数以上に群がります。ダイエットに興味がない女の子は、わたしの周りにはいませんでしたよ。強いて言えば、元からきれいな子と、諦めちゃった子と、つまりは無関心でいられる状態の子だけが、この言葉から自由でした。女でいることは戦いです。おしゃれは、がまんです。

 わたしが一年かけて試した数々の、ギャグみたいなものから修行みたいなものまでのダイエット談を話してもいいのですが、そういうの、苦労ジマンっぽくて恥ずかしいですよね。ただ、もしかしたらこの、わたしの小説(みたいなもの?)を読んでるひとの中に、確実なダイエットをしたい方がいるんでしたら、ひとつだけ。鏡を毎日見ましょう。お腹でも、二の腕でも、ふとももでも、やせたい部分からは、比喩的な意味とは無関係に、眼を逸らしちゃだめです。ちゃんと敵を見すえたら、適度な運動と、適度な食事が一番いいです。なあんだ、って思いました? そうですよね。わたしがやせた方法も、こんな、生易しいものじゃないんですよ。妹ならきっと、ここで『確実なダイエット方法の不在に対する帰納的手法での証明』だったり、『ヒトの文化発達速度と身体発達速度の差異により生じる肥満の必然性』だったり、とてもためになる話をしてくれると思うんですが、わたしにはそんな論理立った話をする頭もないので、当り前なことしか言えないです。でも、だいじですよ、鏡。次に適度な運動と、食事です。

 鏡を見ないで、過度の運動と、過度の食事制限をしていたのが、あの頃のわたしでした。これも当たり前ですが、摂取カロリー小なり消費カロリーなら、やせるに決まってるんです、物理的に。あ、ちょっと妹みたいなこと言えてるかも知れませんね。あの子、これを読んだらなんて思うんでしょうか。「おねえ、あんまりアタシのことなめんな」って言われそうです。かわいいんですよ、わたしの妹、ハリネズミみたいで。ちっちゃくて、とげとげしいの。だけど世界で一番かわいいのは、わたしの恋人です。これは、絶対に。

 ひどいダイエットの仕方で、予定通りにやせたわたしは、生理が止まったり、拒食症になったり、まあ、おかしくなっていたんです。リバウンドはなかったですよ、何を食べても吐くから。時々倒れて病院に担ぎこまれたりもしました。お母さんやお医者さんに叱られて、でも、わたしは、盲目だったせいで、聞きませんでした。やせるといいことが多いです。太るとまた、蛍子じゃなくなってしまいます。高校生になって、地元から離れた進学校に通うようになって、いいことがたくさんあったわたしは、ハムじゃなくなったわたしは、呪いを遠いところへ捨ててきた変わりに、別の呪いにかかっていました。強迫観念、というんでしょうか。やせたから好かれた、が、やせないと嫌われる、に置き換わるんです。今思えば、客観的に見ても細かった高校生のわたしは、ハムじゃなくなったのに、もっと、もっとって、やせることに固執していました。

 わからなくなっていた、というのもあるんです。やせたらわたしのことを見てもらえると思っていて、実際、冗談みたいに、成功しました。告白もされました。全部断りました。今のわたしに輪をかけて、当時のわたしは馬鹿でした。同じ中学校出身の人間なんてひとりもいないのに、中学生時代のわたしを知っている人間なんてひとりもいないのに、まるで、わたしを好きだと言った彼らが、太ったわたしを恋愛対象にしないくせ、やせたわたしを恋愛対象にするような、ひどい、薄情者に思えて、好かれているのはわたしの外見に思えて、信用、出来ませんでした。

 男性不信になりました。

 ああ、今更なんですけど、多分、レズビアンなんです、わたし。同性は、ずっと、優しかったです。わたしが太っていた時も、やせていた時も、今も、ずっと。二十七歳にもなって乏し過ぎるわたしの恋愛観では、友達の延長に恋人が在るんですね。そして、男のひとは、わたしの友達にも恋人にもなりませんでした、わたしの頭がおかしいせいで。ごめんなさい。ごめんなさい。おかしいんです、わたし。

 だんだん、同性も怖くなってきて、同性に甘えたり、触れることで安心する自分が怖くて、やせました。リストカット、あるじゃないですか。あれ、最初は死ぬ目的でやるのが、そのうち何かの代替としてやるようになるらしいんです。わたしのダイエットはリストカットと同じでした。もう、やせたいからダイエットをするんじゃなくて、怖いから、ダイエット。逃げたくて、ダイエット。といっても、あんなものは、ダイエットですらありませんでした。食べないだけ、吐くだけ、骨に、なるだけ。不思議と、涙は出るんですね。寮の部屋のベッドで、毛布に包まって、ぼうっと、泣いている骨でしたよ。

 どうやって生きていけばいいかわからない、骨でしたよ。

 そんな女が、同性からも嫌われないはずはなくて、病的にやせていくわたしから、少しずつ少しずつ、友達も離れて行ったんですね。孤独を知っているひとならよくご存じだと思いますが、独りって、安心します。傷つかないし、傷つけないし、平穏です。しかも、現代日本では、独りの女でも生きていけるんです、お金さえあれば。心が壊れなければ。

 こんな、ガタガタの精神状態でも、勉強だけは人並み以上だったんです、わたし。イヤな女の代名詞です。イヤな女、です。わたしは、勉強なんて出来なくてよかったです。あっけらかんとして、おしゃべりで、かわいい女の子になりたかったです。けど、勉強が出来たおかげで、わたしは独りで何とかやっていけるという予感がありました。学生がどうして勉強をするか、知っていますか。就職するためです。それ以上でもそれ以下でもないです。よく、「学校の成績なんて社会に出ても役に立たない」と仰る方がいますが、そんなのは当たり前です。社会に出るための布石です。就職活動に使う道具が、就職後に役立たずだと喚くなんて、目的の履き違えです。

 ほら、イヤな女。

 やっぱり、わたし、小説とか、無理かも。自分のことを書く小説、確か、私小説っていうのがあって、そういうのなら書けるかもって思ってたんです。でも、なんだか、無理かも。原稿用紙、涙、だし。ティッシュ、ティッシュ。

 結構、相変わらず、泣き虫なんですね。Hの時とか絶対泣きます。瑠花は、あ、いいのかな本名。いいよね、誰もわかんないし。瑠花はわたしが泣くの分かってるから、わたしの顔を見ながらします。えっと、あ、っと、は、恥ずかしいですねこういうの! 言っておきますけど、瑠花は世界一かわいくて世界一虐めっこですよ。あとは世界一優しいし、世界一恥ずかしいセリフが似合う女です。最強、ですよ。わたしみたいなのを抱きしめちゃう子ですよ。それはそれは最強です。最強彼女、です。

 あの子が最初にわたしへ言った言葉、なんだと思いますか? 最初も最初、高校二年生の頃、寮の部屋替えが済んだ夜でした。泣いていたんです、わたし。そしたらバーンってドアを開け放って、彼女ったら、「泣くなら私の胸で泣けっ!」って、今思うと笑っちゃう。その時のわたしはアゼンですよ。誰この子? だし、鍵かけてたよ、だし、わたし泣いてる、しで、わけわかんないし。有だの無だの言う暇もなく、ええと、抱きしめられましたよ。そしたら涙、止まっちゃって。ひっこんじゃいました。安心、しちゃいました。「夜泣きはね、だめだよ。拭いてもらえないでしょ。女の涙は武器なんだから、無駄撃ちしないの」。わたしの涙を拭きながら彼女は言ったんです。何それ! さっき泣けって言ったくせに、あんただって女のくせにって、わたし、くやしくて泣きました。「え、フェイント!? ずるっ!」。わたしは、ずるくない、ずるくないよって、濁点まみれの声で言ったんです。彼女は、「ずるいよ。かわいい子が泣くのは、いつだってずるい」だって。変な子だなあって思いました。

 ずるいのは瑠花の方でした。部屋が隣だったんですね。クラスも隣で、それにかこつけて会いに来ました。わたしの警戒心や抵抗、バリアを片っ端から踏み倒して、どんどんナカに入ってきました。それは、とても、ずるかったです。眩しかったです。奇跡みたいにミラクルです。魔法、でした。

 まともに物が食べられるようになったのも、瑠花のお陰です。一回ね、冗談で言ったんですよ、ルカが食べさせてくれたら食べるって。そしたら彼女、後ろからわたしのこと抱いて、アイスだったんですけど、口移しで。アイスくらい一人で食べれるよって言いました、わたし。それは本当でした。「ふたりで食べた方がおいしいから」。瑠花の言ったことは正しいのかも知れませんが、カップアイスをお互いの口から食べる食べ方は、なんだか、違いますよね。味なんてわかんなかったんですよ。すごく、甘かったくらいしか。わたしが満更でもないのに彼女が気付いて、飴、とか、チョコ、とか、そういうキスをたくさんしました。他は、彼女の指から食べさせられて、ああいうの、餌付けって言うんです、きっと。餌付けされちゃって、いつの間にかわたしは、瑠花に溺れていました。食事に対する拒否反応も薄れました。

 拒食症とダイエットぐせは、一生治らないと思ってたのに、治っちゃったんです。今度はそれが怖くなりました。太ったら、瑠花に嫌われる。病気じゃないと、瑠花に構ってもらえない。

 既に不要になった、親とヒナ鳥の関係を続けながら、ある日、わたし、泣きました。瑠花の指を舐めて、舐めても、舐めたから、ぽろぽろ涙がこぼれました。彼女は困っていました。あとで聞いたら、その、欲情、してたらしくって。瑠花は泣いてる女の子が好きなんだそうです。ひどい子ですよね。でも実はネコなんですよ、あの子。とってもかわいいんだから。

 その時のわたしは何も知らなくて、瑠花が赤い顔をして揺する指を、引かれない指を、夢中で舐めていました。ふやけちゃうくらい舐めていたら、瑠花が小声で言うんです。「私も舐めていい?」って。ずるい聞き方でした。指を舐めていい、とは聞いていないんですね。もちろん最初は指でした。それが手の甲になって、手首になって、腕になると、おかしいと抗議するべきなんですが、ずるいわたしでした。いつも、わたしが、一番ずるいんです。少なくとも、わたしが瑠花にされたことを詳しく書かない程はずるいです。だって、恥ずかしい、し。

 ただ、彼女の指が入ってきた時、わたしはまた、泣きました。救われた気がして泣きました。「蛍子」って。彼女が知っているありったけの口説き文句の中に、何度も、わたしの名前が交ざって、彼女の指が、ちゃんと、わたしのお腹にあって、それが愛しくて、泣きました。幸せでした。

 純情な初体験は、十年経った今でも、振り返ると、ちょっと、涙が出ます。瑠花は相変わらずわたしの涙が好きで、わたしは相変わらず、瑠花を愛しています。

 わたしの両親がね、言うんです。実家へ帰るたびに、「いつ結婚するんだ。相手はいるのか」って。真面目なあなた達に酷な話なのは分かっています。でも、彼女はわたしを選んでくれた。わたしも彼女を選んだ。祝福してくれなくていいです。怨んで、怨んでくれていいんです。孫に会わせられなくてごめんね、お父さん。心配ばかりかけてごめんね、お母さん。だけど、わたし、決めたんだ。瑠花と、ずっといるって。

 世の中には、たくさんのひとがいるもので、わたしの物語は、誰かに、笑われたり、誰かに、けなされたり、誰かに、きらわれる、だろうけど、誰かには、届くと思っているんです。これは祈りです。ほんの一握りの誰かが、わたしたちのことを、祝福して欲しいという、祈りです。

 誓い、は。この小箱の中にあるふたりの誓いは、結局、両親の前で付ける勇気がありませんでした。

 だから今、取り出して、静かに、薬指へ。

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