【いいひと病】

 照明のオレンジが、網の下から立ち昇る煙に淡く滲んでいる。そこへノノさんの吐く紫煙と周囲の会話とが綯い交ぜになり、肉を焼く音が加わって、漠とした靄を形成していた。普段なら文字通り煙たがるであろう私は、しかし今の状況がそれとなく救いだった。落ち込んでいる時は独りでいるべきではない。そう教えてくれたのはノノさんであり、私が気落ちしているのを見るにつけ、食事に遊びに連れ出してくれた――以前は。ノノさんと会うのは実に二ヶ月ぶりで、久々の彼女は、脱色したのか加色したのか判然としない白髪頭でもって私を出迎えた。更に、その細身は紺の作務衣を着ており、あたかも世捨て人の様相を呈している。てっつん、おひさ。再会した彼女は相変わらずの緩い笑顔で挨拶をし、私が内包した、ひと時の戸惑いを掻き消した。この人の笑みが変わらず在ることに私は安堵した。

「いやあ、ごめんねえ、てっつん。何だか急で申し訳ないねえ。けど突発的に肉を食べなければいけない気がして、ならば一人で食べるわけには行くまいよ。肉は狩猟時代より複数人で食べるものと相場が決まっていてだねえ、あたしも件の壁画に倣って野鹿だかマンモスだかを囲む人々の、あの幸福を誰かと共有してみようと思ったはいいんだが、やれ彼女だやれ彼氏だと、みんな先約入りだとさ。世知辛いねえ。夏のアバンチュールは焼肉に勝るらしいんだよ、これが。まあ、いきなり連絡したあたしが悪いと言えば悪いねえ」

 長くなった灰を灰皿へ落とし、ノノさんは苦笑した。彼女の広い交友をもってしても、夏季休暇中に捕まるのは私ぐらいなものだったらしい。意訳すると、独り身なのは私だけということになる。失恋した身には少々堪えたが、殊更に主張したりはしない。

「まさか、他の方へも昨日の今日で、ですか?」

 昨夜のメールを思い起こす。『帰一能々<キイチノノ>と無駄に肉を食う会、ぶっちゃけ明日開催。奢りにつき奮って参加されたし』と書いた下に、時間と集合場所が記載されていた。そのメールが届いたのは就寝前で、正真正銘の行き当たりばったりに感じられた。私の古い携帯では他の送信先を知ることは出来ないが、同じ文面を見た際の受信者の困惑は、推して知れる。

「流石てっつんは聡明だねえ。真逆<マサカ>の真逆、要はその通りなんだ、これが。実際、半分返事があればいいかなと思っていたら、なんと三分の一しか返ってこない。しかもてっつん以外は全部お断りメールなのが切ないねえ。みんな予定がいっぱいだそうだよ、羨ましいことさ」

 その割に、ノノさんはさして羨望している風でもなく、目を細めて煙草を吸った。窄められた唇から薄靄の蛇がゆるりと這い出て、曖昧模糊の煙塊へと蕩けていくのを、私は目で追う。

 私の予定表は当初に比べてごっそりと中身を減らしていた。大学のテスト、NPO主催のボランティア活動、パン屋の臨時アルバイト、サークル。多大なウェイトを占めていた最後のひとつが、消失した。私はこの夏、サークルに居られなくなった。マネージャーを務めていたサッカー部から、逃げるように、消えるように、退部届を提出した。そしてアドレス帳からは、九条日向<クジョウヒナタ>の情報を削除した。もう話しかけないで、連絡もしないで、気持ち悪いから。彼女の蔑んだ瞳を思い起こすのが怖くて、交わしたメールの一切も残さなかった。写真は――写真は捨てられなかった。ふたり分の笑顔をゴミ箱へ送ることがどうしても出来ず、机の奥底に隠した。土中に埋まったタイムカプセルのように、それは甘い、苦い思い出になるのだろうか。今はひたすらに苦くて、苦しい。

「ノノさんは忙しいの? あと、そろそろ服とか髪にツッコミを入れてもいいですか。作務衣に下駄履いて焼肉を食べに来るひと、初めて見ましたよ」

 菜箸で豚トロの群れを裏返しつつ問う。当人は、ああ、と呟いて、煙草を灰皿へと押し付けた。

「仕事はぼちぼちやってるねえ。こいつは仕事着なんだけれど、数回着たら癖になっちゃったんだな、これが。大体、先生以外のひとと滅多に会わないものだから、公と私の境目も有って無いような話でさ。髪は、あー……『平成の世に、山へ混じりて木を削る女有りけり。名をば帰一能々となむ言いける。大山倍達に倣ひて片眉を剃ろうとするも、矮小にて、髪<クシ>を九十九に染めて飽くる』。古語の『をかし』じゃなくて、現代語の『おかしい』だねえ、これは」

 ざっくばらんに切った髪を指先で弄び、彼女は照れた。それは私にとって、春のあけぼのより、冬のつとめてより『をかし』かった。枕草子の夏は、夜。月が飛んでいなくても、蛍が飛んでいなくても、ノノさんと居られる夜は落ち着く。

「そうかなぁ。似合ってますよ。ノノさんっぽい色で」

「てっつんは優しいねえ。先生にもお客さんにもスルーされて、寂しかったところなんだ。しかし白はあなた向けの色だ、譲るよ。具体的には、今度染めに行こう」

「ええっ!? 困ります。バイトクビになりますよ!」

「その素直さが、実に白いねえ」

 くっくと喉を鳴らす意地悪な彼女へ、焼き色の付いた肉を渡す。茄子の輪切りも添えた。自分も二三取り、空いた網に牛カルビを並べる。菜箸を置いてノノさんを見ると、顎に手を当ててこちらを眺めていた。

「甲斐甲斐しさも変わらず、か。もっとも、あたしが指を咥えて肉を見ているので、畢竟、てっつんが世話を焼き肉を焼かねばならないという理<コトワリ>だねえ。存分に構ってくれると良いよ。ただしあまりにも図々しいため、こうなることを予測していたあたしは、代金以外のお礼を用意してあるのだよ」

 言うなり、ノノさんの手が作務衣の襟に潜った。隙間から、ちらと胸の膨らみが伺え、私は思わず目線をずらした。結露の浮いた烏龍茶のグラスが丁度そこにあった。琥珀色にも茶色にも見える液体を見ながら、ノノさんがシャツどころか下着も付けていない事実を忘れようと努める。私は、『おかしい』のだ。おかしいと言われた。幽かな期待はナイフで抉られて、治らない傷が生まれた。頭おかしいんじゃないの、普通に引くし。そう吐き捨てた日向の表情が脳裏をよぎって、私は醒めた。浮遊から戻ってきた視界に映るのは、ノノさんの手と、和紙に包まれた何かだった。

「帰一能々から高坂鉄奈<コウサカテツナ>様へ、贈呈品がある様子です。鉄奈様は可及的速やかにこれを受け取り、あたしの感謝と思って頂きたく候。……といった按配だねえ。ところで、ずっと手を出していると格好がつかない上、網の熱気がたまんない感じだから、可及的速やかにお願いしたいぞ、てっつん」

「あ、はいっ」

 私は慌てて両手を伸ばし、彼女は包みを置いた。重さは殆ど感じられない。開けていいか問う私に、もちろん、と彼女は答える。包みは一枚の紙で出来ており、噛み合った部分を外すと、舞台には木彫りの兎が現れた。

「わあ! かわいい……」

 取り付けられた紐がキーホルダーを思わせる、小さな彫刻だった。私はそれを目の高さに吊り上げ、矯めつ眇めつする。毛の一本、瞳一つまで入念に彫られ、ヤスリ掛けされたであろう艶やかな肌を持った兎からは、静かな山の香りがした。

「檜<ヒノキ>の切れ端で彫ってみたんだ。今彫ってる奴が大きくてねえ、あたしより背高の鷹でさ。角材から削り出すとどうしても余分が出るんだ、これが。先生曰く、『大を彫る時は小を、小を彫る時は大を。一方に寄ってはいけません』とのことで……秀作がてらに彫った物だけど、気持ちは入れてる。良かったらもらって欲しいねえ」

「いいんですか? 嬉しいな……大事にします」

「あたしの名前が売れるまで取っておくといいよ。いつになるかは分からないけどねえ」

 そして報酬を払い、あたしはしかるべき肉を食う。ノノさんは宣誓してから箸を取った。豚トロを塩ダレに浸す彼女を横目に、私はまだ兎を見つめていた。これが今のノノさんの夢の形だと思うと、愛しさが込み上げる。学部とサークルの先輩だった彼女。二年次には同級生になった彼女。二ヶ月前に――大学を辞めた彼女。建築学を志していたノノさんの興味は、建物から装飾へと、装飾から彫刻へと移り変わった。留年の理由も退学の理由も、彫刻。好きなものへ直向きになれる彼女が私には羨ましい。私は、九条日向<スキナモノ>を好きでいる資格さえ失ってしまった。

「……あのねえ、てっつん。目の前で作品を凝視されるの、凄まじく恥ずかしいんだよねえ。そ、それでねえ、うー……出来ればご家庭にてお楽しみください。肉食べようよ、肉。おいしいよ?」

「ノノさん、いいなぁ」

 口の中で呟く。私にしか聞こえない声で、憧れを詠う。手の中の兎をそっと紙に包み、バッグへ仕舞った。菜箸でカルビを裏返そうと思ったら、いつの間にか、全て焼き色を表に見せている。どちらが構ってもらっているか分かったものではない。

 豚トロを口にする。舌の上に広がる脂の甘みとタレの塩気とが、妙に空々しく感じられる。モスコミュールで洗った。本当は、焼肉も焼き魚も、野菜も、米も、食べ物に関する嗜好は何ひとつ無い。水とモスコミュールが好きだった。水分だけで生きていければいいのにと良く思う。日向に振られたあとは、特にその思想が顕著だった。三日間を水で過ごし、水分だけで死ぬことも考えたのに、まだ生きている。結局食べて生きている。死ぬほど辛くても、生きてしまっている。

「女ふたりで焼肉っていうのも、何だか間が抜けてるねえ。ん、男ふたりでもあんまり変わらないか。大事なのは人数だろうねえ、きっと。ご飯はなるべく多くのひとと食べた方がいいねえ。だけど大多数で焼肉になると、てっつんの女房ぶりが徒になるから、あなたとはふたりっきりで肉を焼きたいねえ」

「ふふ、変なノノさん。はいカルビ。焼けたのからキャベツの上に避難させておくね」

 ノノさんは幸せそうだ。彼女みたいに、明け透けに好意を受けてくれる人間を私は知らない。ひとは誰しも適度に甘えて適度に遠慮する。百をあげようとしても、大抵は五十受け取って残りを拒む。私は押し付けがましい人間なので、それが辛い。自分に妥当な奉仕先を探したら、サークルのマネージャーと、無報酬のボランティアが見つかった。これからはボランティアしか出来ないけれど、どうせ構いはしないのだ。先日参加した植樹<ショクジュ>運動はとても楽しかった。献身している時は嫌なことが忘れられる。自分が優しい良い子だと錯覚出来る。居場所が、ある。

 私は自分のことを『いいひと病』の患者だと思っている。『いいひと病』は畸形の依存症だ。身を捧げる相手がいなければ、自己の存在に価値を見出せない。誰かに愛情を注いで初めて安心する。こんなもの、ボランティア精神でも何でもない。自己愛<エゴ>だ。偉いね、すごいねと言われる度、違和感を覚えた。表層の現象は認められるものであっても、私の気持ちは歪んでいる。

「カルビ……三大畜肉、牛と鶏と豚の中で、カルビと言えば牛だねえ。ちなみに、かわいそうな動物と言えば豚だって話があってさ。知ってる?」

「いえ、知らないです。どうして豚なんですか?」

 ノノさんはご飯にカルビを乗せて、口へ運ぶ。少し間を空けてから話題を展開した。

「もともと豚なんて生き物はいなかったらしくてねえ、まず猪がいた。それをひとが捕まえて、より肉が採れるように、より飼いやすいように品種改良をした。結果、戦わない豚の牙は猪に比べて短く、胴体は逆に、肉を付けるため長く、早く食肉になるべく成長は早く……人間にとって効率の良い生き物が誕生したんだって。大雑把に言うと、ひとが飼っている前提の種族が豚ってことみたい。だからかわいそうだってさ」

 飼われることで定義される存在を、私は良く知っている。愚鈍なところもそっくりだと思った。しかし、ノノさんの語るロジックそのものは今ひとつ腑に落ちない。

「その論法はちょっと強引じゃないでしょうか。別に猪のままだって食べてたわけだし……豚がかわいそうなら、鶏も牛も、畜産に携わる全ての動物がかわいそうですよ。みんな食べられるために生きてるもの」

「だよねえ。いわゆる『生き物を食べるのはかわいそう』派の流れだと思うけど、あたしも苦手だな。頂きますの語源は『命を頂きます』なんて言う手合いだ。そんなに肉食を嫌悪するなら、食べなければいいんだよ。ベジタリアンというライフスタイルを選ばない癖に、タテマエだけ言うのはおかしいよねえ。まあ、あたしは料理したひとと育てたひとへ感謝はしても、材料に感謝はしないな。嫌な奴だよねえ、あたし」

「そんなこと無いです! そんなこと、ない」

 割り切る方が潔い。拘泥は醜い。慈善行為をやっているにも関わらず、意味に悩む私は醜い。失恋を引き摺り続ける心も醜い。グラスを傾けてアルコールを摂った。微妙な炭酸が舌で弾ける。

 いっそ言ってしまえたら良いのに。私も豚の仲間なんですが、ノノさんは哀れんでくれませんか。ひとの役に立つことでしか生きられないんです。ただ、初めて――初めて自分本位で行動したんですよ。日向の側に、もっと近くに居たいと思ったんです。そしたら要らないって言われました。拒絶されました。友達としても居られなくなりました。ノノさん、私はどうすればいいのかな。少しだけ、ほんの少しだけ、期待してたんだ。日向は優しいからなんて、一生懸命自分に言い聞かせて、でも何のことは無かったんです。一年以上いっしょに居て、日向があんな目をするところは見たことがありませんでした。『物を見るような目』って本当に存在するんですね。私は一瞬で物に変わりました。仲のいい友達から、道端の小石以下に成り下がりました。豚にさえなれませんでした。日向を不愉快にしたあと、足が勝手に踵を反して、部室から出て行きました。涙は出なくて、『泣けないほど悲しいこと』があることも理解しました。

私はかわいそうですか、ノノさん。

「てっつん、何か落ち込んでる?」

「ふえ? やだなぁノノさんったら。悩みがあったら相談するよう。サークル時代からそうやって、ノノさんに頼らせてもらってますしね。あっ、そろそろこのホルモンとか大丈夫だと思うな。ホルモンって焼けたか焼けてないか分かりづらいですよね」

「語源が『捨てる<ホウル>モン』なのも分かりづらいねえ。ややこしい名前を付けるから、生理活性物質<ホルモン>と混同するひとが出てくる。内臓が分泌するホルモンもあるせいで、余計手に負えないねえ」

 私は焼き目の付いたホルモンを、彼女の取り皿へと置いた。私自身も食べる。不確かな食感が薄気味悪かった。味はしない。タレの味も肉の味もしない。

「うん、焼けてる。美味しいですよ」

「ご飯進むねえ。あたしばっかり食べてるのはどうよって感じだけどさ。いつも小食なてっつんが、今日は輪をかけて食べてないじゃない。バーの方が良かったかねえ、これは」

「や、お肉でいいんです! ノノさんをいっぱい甘やかせるのが、私のポジション的にオイシイかなーって。それに、バーだとノノさんが楽しめないでしょ?」

 言って、ご飯を口に運ぶ。食欲の普通さを今更に装う。ばれたら駄目だ。幾らノノさん相手だって、出来る話と出来ない話がある。私のセクシャリティーは誰にも打ち明けたことがない。たった一人、日向には告白した。そして拒否反応があった。ノノさんが彼女と違う保証はない。また友達が減るのは嫌だ。助けを求められなくなるのは嫌だ。ノノさんが、二ヶ月疎遠だったノノさんが、完全に私の世界から消えてしまうのは、嫌だ。

「てっつんはいい子だねえ。てっつんが男だったら結婚して欲しいと思っているところだ。ああ、次はタンを焼いてくれるとノノさん大喜び」

「野菜も食べましょう。ニンジンとピーマンとピーマンとピーマンで網を埋めます」

「この野菜盛りおかしいって! 絶対厨房にピーマン余ってるよねえ!? あたしは肉を食べに来てるんだよ、てっつん。あなたを憎みたくは無いんだ。健康志向には目を瞑って、ここは涙を飲もう。主に肉を焼こう」

 構わずピーマンを並べて、焦げかけたキャベツを拾った。ノノさんは唇を尖らせている。私はいい子なので、そんな彼女を見て悪戯な笑みを零す。白髪の彼女は、焼けるピーマンを親の敵の如く睨み、ため息を吐き、店員へご飯を注文した。煙草を咥える。煙草で食欲が減るという話を耳に挟んだことがあるけれど、ノノさんには当てはまらないようだ。その健啖ぶりは健在らしい。

 私が男だったら、とノノさんは言った。つまり私みたいなのは、同性愛者の高坂鉄奈は、彼女の範疇に納まらないのだ。話さなくて良かった。もう期待はしない。一生、恋なんてしない。

 初恋はあなただったなんて、ますます言えない。あなたに恋人がいなかったなら、あなたがまだ大学に居てくれたならなんて、そんな私の未練に価値はない。

「ホルモンと言えばねえ、てっつん。ホルモンシャワーのことは知ってる? テストステロンって名前の男性ホルモンが、胎児の脳みその性差を決めてしまうんだってさ」

「脳の性差、ですか。え、っと……脳に性別があるんですね。初耳です」

 深入りしたくない話題だった。ホルモンシャワー説は、同性愛に生物学的理由を付加する論拠のひとつだ。要約すると、母体内において胎児の初期状態は女であり、妊娠中に浴びるテストステロンの量次第で、まずは脳の性別が上書きされる。このステージで、脳が男になり肉体が女のままのひと、或いは脳が女のままで肉体が男に変わったひとが同性愛者になると言う。テストステロンによる性差決定はともかく、同性愛への適用に関しては受け入れがたかった。人間が電気信号と分泌物で思考し、行動すると分かっていても、恋だけは別であると思う。半ば願望だった。

 持ち得る知識は、時として人間性を露呈させる。ホルモンシャワーを知っている私がノノさんにどう見られるか、考えるより先に嘘を吐いていた。ノノさんは訝しむ様子もなく、烏龍茶のグラスを揺すった。指先に挟んだ煙草の煙が、いっしょになって揺れる。

「男脳女脳って聞いたことがないかな。『話を聞かない男、地図が読めない女』なんて本もあったねえ。あたしは未読だけれど、多分に、肉体の性を脳の性と等号で繋いで、男の脳は、女の脳は、みたいな傾向を引っ張り出したんだろうねえ。統計か何かでさ」

「男のひとは立体の把握に優れる……とか、そういうのですか?」

 性差自体に関する知識は薄い。曖昧な記憶で話を合わせる私に、烏龍茶をひと口飲んで、彼女は二度三度頷いた。

「それだねえ。一般に、空間把握は男脳の特性になっている。でもさ、だったら曲がりなりにも立体芸術をやってる、あたしの脳は男なのかってことだよ。分析してる連中はこう答える。『男脳何割、女脳何割』。傾向という単語は便利でねえ、総じてファジーを好むのさ。まあ母集団が大き過ぎるから、仕方がないと言えば仕方がないよ。ただ、ファジーな故に説得力は低いねえ」

 自分の理論に納得して、煙草を深く吸い込む。赤い灯火が猛り、紙の燃える音が聞こえた気がした。崩れかけた灰が灰皿へ落ちる。その灰ごと紙巻が押し潰されるのを、私はそれとなく目で追った。

「ノノさんの理屈っぽいところは、何だか男のひとめいてますよね」

 思いつきを言うと、ノノさんは頬を膨らませた。すまし顔でピーマンを反転させる私に対して身を乗り出す。何をするかと思えば、作務衣の襟元を軽くはだけて見せた。ほのかに汗の浮いた、ノノさんの母性の谷間が露になり、私は息を呑んだ。

「……てっつんねえ。裸<ラ>になるぞ、あたし。これでもいつかは『たらちねのはは』だ。漢字で書くと『垂乳根の母』なのが哀愁を誘うねえ」

「あの、分かってます! ノノさんが女性だって、私分かってますから、怒らないでください!」

 彼女の癪に障ったのだと考え、大慌てで訂正した。当のノノさんは襟を正し、揶揄の笑みを向ける。怒りとは無縁の表情だった。

「いや、てっつんが時々あたしの胸元をチラ見してたので、ノーブラだと主張してみたに過ぎないよ。ついでにノーパン。興奮する?」

「しません!」

 つい過剰反応した私の勢いは、ノノさんへぶつかることなく、わだかまった煙と共にダクトへ呑まれていった。余裕綽々で肩を竦め、彼女は応対する。

「手厳しいねえ。つまりてっつんに『その気』は無いわけだ。あなたが自己の性自認を再検討したり、感情の理屈探しに追われる手間がなくていいことさ。かと言って、性へ特別な観念を持っているひとが一概に悩んでいるかと問われれば、ひとによりけりだねえ。悩まないひとには、科学的医学的根拠なぞ必要なかろうて。理論は悩めるひとが仮初めの安堵を得る装置に過ぎないよ。よって横道なホルモンのお話は終いだねえ」

 ひと段落して彼女が目を閉じている隙に、焼けたピーマンを皿の上へ派遣した。やがてノノさんの瞳がそれを捕捉する。再度瞼は下り、眉間には深い皺が刻まれた。私は正しく笑っている。能楽の翁面じみた偽物ではなく、更に作り込んだ嘘の嘘が、私の表情を上手に固定する。

 ノノさんの言う通り、ひとそれぞれだった。私は自分の気持ちに理由を問うたことはない。事由を求めたこともない。ただ、日向の愛情を求めた。彼女さえ許容してくれたなら、満足出来たはずだ。

 ひとを救うのは体系づけられた知識ではなく、ひとそのものであることを、私も、恐らくノノさんも分かっている。ノノさんは――私を救うだろうか? いつの間にか唇が動いていた。

「あなたはあるんですか、『その気』」

「生まれてこの方、ないねえ。ピーマンが人類に必要だと思ったことも、かつてないねえ」

 私が彼女の手元を見つめているのは、ピーマンとは全く関係のない動機によった。しかし勘違いをしたのか、渋々の体で彼女は食べた。偽物めいた、嘘のような緑色を。私にはその場にある何もかもが実感なく見えた。

「恋愛は自由でいい。博愛を謳うのも許されている。そして逆も然り、だ。あたしは平平凡凡と、男女間の交際を続けてきたさ。そこに取り立てた問題はなかったねえ。今後もヘテロセクシャルの人間として……ああ、誤解を招きたくはないので注釈すると、理解はあるよ。ゲイの友人もいる。あたし自身が当事者の立場にないだけで、部外者なりに暖かく見守りたいとは思うねえ」

 背骨の中央を、暗い猜疑が昇る。ノノさんが『命を頂きます』と嘯く人々の輪に囲われているように感じる。タテマエじゃないんですかノノさん。あなたは無関係で無関心で、口あたりの良い言葉を舌に乗せているだけではないんですか。ノノさんは痛みませんよね痛くありませんよね。こんなのは嫌だ辛い辛い辛い辛い。

 この件について、彼女は味方でも敵でもなかった。そんな当たり前の事実が私を切り刻む。違う、理解を示すと言ってくれた。味方だ。違う、当事者ではない。敵だ。膨らむ靄が換気扇に吸われては生まれる。あとからあとから立ち昇る。

「一旦外すよ。食事の最中に無粋だけれど、花を摘んでくる」

 両袖に手を入れて、ノノさんは席を立った。からん、からん、からん。硬質な音が私から遠のいていく。私は網の上で焦げていくニンジンを、箸で割って、割って割って、網の隙間から火中へ落とした。モスコミュールを啜る。舌がちりちり音立てる。ちりちり音立てながら私は、ノノさんのグラスに私のグラスを付け、傾け、泡の出る麦茶よりも極めて希薄なアルコールを含有する、泡の名残もない烏龍茶を作った。人差し指を浸ける。からん、からん、からん。溶け残りの氷が踊る。人差し指がシンと冷える。

 独りでロースを焼き、ノノさんを待った。赤身が焼かれて灰色に変わっていく。私も奇妙な色をした肉になる。拠り所にしていたノノさんを進んで失おうとする、おかしな肉になる。おかしな肉、か。メニューを眺めてそれを探した。この店で一番辛い肉は『火鶏<プルダッ>』と言うらしい。モスコミュールを空けて、烏龍ハイと一緒に注文した。

 早くノノさんが帰ってくればいいのに。灰色のロースを醤油ダレで食べる。塩ダレとの差なんてない。ご飯の一角を少し削って、食事ではなく作業のように、口へ運び、噛んで、飲んだ。自分が本格的な味覚障害者である気がした。これから犯罪者になろうとしている。早くノノさんが帰ってくればいいのに。私の杜撰なお膳立てが整う前に、看破されるタイミングで、ノノさんが帰ってくればいいのに。網の上のロースが、一枚、一枚と減る。網が空になって所在なくなって、とうもろこしを転がした。酒が来て、おかしな肉が来て、ノノさんは帰って来なくて、烏龍ハイを含んで、明らかなアルコールの苦みに、少し安心した。

 からん。目線を音源へ向けると、ノノさんが眉を顰めていた。

「聞いてよ、てっつん。やけに待たされると思ったらねえ、入っていたひとがトイレの中で寝ていたんだよ。堪らないねえ。漏っちゃうところだった。……む、鶏? 真っ赤な上に匂いからして辛いねえ。てっつん専用?」

「私も厳しいかも。とっても辛いそうで、つい興味が湧きました」

「てっつんはチャレンジ精神豊富だねえ。存分に焼くと良いよ。ああ、出来たらロースと半々で焼いて欲しいねえ」

 お互いに辛い物は不得手だ。でも、今日の私には辛さの度合いなど意味がない。菜箸が布石を並べていく。くだらない姦計を設計する足がかりになる。

「……さっきのお客さんのこと、あなたは兎も角、あたしはあんまり笑えないねえ。アルコールを採れば良い勝負さ。友人の意見を統合するに、全く碌でもないよ。当人が覚えていないのが、一番性質<タチ>が悪いって思う理由でさ」

「私は酔ったノノさんも好きですよ」

「お酒の入ったあたしじゃなしに、素面のあたしを愛して欲しいねえ。どだい山籠りなんぞしていると、愛が欠乏するから困るな。鴨長明の如く庵に入って、『ゆく河の流れは絶えずして』とは切り出せないよ。あたしの先生なら或いは、かねえ。木とノミさえあれば孤独を貫ける先生と違って、あたしはまだ俗物だけどねえ」

 カクテキを齧る彼女に、とうもろこしを勧める。嬉々として受け取った。幸せを満面に浮かべる彼女に対して、罪悪感のひとつも湧かなければいけない。素面のあなたを好きな私が、その意志を蔑ろにする算段を立てているのだから、失礼にも程がある。内省的な心とは裏腹、私の容貌<カンバセ>は笑みを濃くする。裏側に、焦げ付いた肉のような、剥げない嫉妬をべったりと貼り付けている。

「今の台詞を聞いたら、佐鹿<サガ>さんが落胆しますよ」

 私が指摘すると、ノノさんは僅かに俯き、すぐさま顔を上げた。照れと諦めが寄り添う、ほのかに悲しげな笑顔を見せた。

「イツキとはもう会っていないんだ。彫刻を始めるために色々な物を捨てたけれど、イツキには捨てられたことになるのかねえ。『久しくとどまりたる例なし』に漏れず、だよ」

「あ……すみません……」

「いや、てっつんは気にしなくていいんだ。どの道こうなるのは、分かっていたしねえ。そんなことより、ノノさんは目先のロースを所望するよ」

 私は汚かった。佐鹿斎<サガイツキ>とノノさんの破局を暴いて、申し訳なさそうな顔をしている。彼女の隣からあの男が去って、内心では歓喜している癖、善良を気取っている。佐鹿さんが居ても居なくても、彼女が私へ振り向くことはないんだ。恥を知れ。

 薄切りの肉をノノさんへ、おかしな肉を私へ送る。おかしな肉の私は、焼けて尚赤い、タンドリーチキンを思わせるおかしな肉を食んだ。舌が熱さだか辛さだかで疼く。舌もおかしな肉になる。

「あれ……意外と見かけ倒しですよ。残る辛さでもなくって……何だろ。美味しいかも」

「え、本当? もの凄く赤々しいんだけど、てっつん、食べられるのか。へえ」

 私と違い、食には関心の高いノノさんだ。二口三口を平然と食べて見せれば充分に効果があった。おかしな肉の舌が、虚偽を囁く。

「そんなに辛くないですし、ノノさんも食べてみよ? 騙されたと思って」

「そ、そうだねえ。あなたが大丈夫な辛さなら、あたしも大丈夫だと思うしねえ」

 私の言に沿って、彼女は皿の上に置かれた鶏肉を拾った。赤い跡が皿に残っているその肉が、辛くないわけもないのに――ノノさんの口内へ届いた。笑みの形だった味わう口は、不意に動きを止める。彼女自身も像を模し、次いでグラスへ手が伸びた。急な消費をされる毒交じりの烏龍茶。私の指が巧く混成したかを問わず、液体は皆、彼女の中に収まった。

「辛いよっ! くぅ……たった二ヶ月で、辛み耐性にかなりの差が付いてしまったんだねえ。てっつんの悪戯に引っかかるとは、あたしも青いな。だが……ひくっ」

 会話を止めたのは小さなしゃっくりだった。ひくっ。ひくっ。喉が再三の音を発する。ひくっ。ノノさんの眼が虚ろを帯びる。彼女が前のめりにならないよう注意を払いながら、私は事の成り行きを眺める。ひくっ。ひくっ。

「……ひくっ。んー……辛味の強い料理、ひさいぶりだもんねえ。びっくりしたのかなぁ……ひくっ。うー……てっつん? ……ひくっ。てっつんもひさいぶりらねえ、うふふ。てっつんだぁ。……ひくっ」

 上気した頬を窪ませて、彼女は私へ笑いかけた。少量のアルコールが加速的に彼女を壊していく。理屈屋も衒学者も静かに抜け落ちていく。最後には純朴な果実が残ることを、私は知っている。

「……ノノさん? あの、しゃっくりが酷いですよ。烏龍茶飲みますか?」

「うん、てっつんありがとう。……ひくっ。なんだか暑いねえ。もう夏だったんだ。この烏龍茶、ひくっ。なんだか苦いねえ。にがぁい……くすっ、変なの。ノノは甘い方がいいなぁ。うん、甘いのがいい……」

 次第に引きつけめいたしゃっくりは消え、『ノノ』が出来上がった。極度の下戸であるノノさんが酒を嗜んだ時は、押し並べて『ノノ』になる。彼女の親しい友人知人はそれを分かっているから、決してノノさんへ酒を勧めない。ノノさんとの親密さを放棄するつもりの私は、今、タブーを犯した。

 店員に柚子のシャーベットを注文し、ノノに飲ませた烏龍ハイを呷った。苦くはない。苦いと感じる資格はない。ノノは小首を傾げ傾げ、時折澄んだ笑い声を零し、シャーベットが届くに当たってご満悦になった。

「食べていいのっ!? やったぁ! てっつんだいすき!」

 何の思惟も哲学もなく、頂きますの言葉のあと、彼女は冷菓を口にした。私は嬉しそうなノノが眩しくて、瞳が焼けるようで、差し込む光量を瞼で落した。ひたすらに無垢な、無抵抗な彼女を乏しめる意図のある自分は、焼死するべきだと思った。

「甘くて、冷たくて甘いねえ。でもノノばっか食べてたらダメだよねえ。てっつんも、はい! あーんして」

 完全に目を瞑る。身を乗り出して、餌を与えられる雛の様相で、甘い施しを受ける。柑橘の香りが柔らかく広がり、味は、とても甘いと錯覚した。ノノの優しさが、今の状況そのものが幻想<マヤカシ>だった。やがて訪れる現実を無視し、私は月も蛍もない、紛いの夜に沈んでいく。

「てっつん、いたいの?」

 ノノが心配した様子で私を見る。あなた達はいちいち敏感過ぎる。『いいひと病』の私とは違って、自然体で思いやってくれる。構ってもらっているのは、感謝しないといけないのは、いつだって私だった。気遣いの視線の中、私は首を左右に振る。辛さも痛みも虚しさに暈けてそんなに苦痛ではない。

「食べ終えたら出ましょうか。今日はこれから私の下宿にお泊り。約束したものね」

「げしゅ……? うん、約束したっ。てっつんと寝るの」

 疑わないこともあなた達の共通点だ。だから私が傷をあげる。ふたりとも汚してあげる。あげる? 損なうの間違いだ。ノノさんも日向も手に入らないと分かった私が、醜悪な腹いせをするだけだ。

 料理を残したことによる違約金で、多少嵩んだ料金を払った。ノノに支払わせる必要はなかった。タクシー代も含めて安い手切れ金だと、勝手に自己完結した。

 海行きたいねえ、てっつん。手繋ぎしたノノが笑う。今度行きましょうね。『今度』のない私が笑う。繋がった部分がしっとりと濡れている。うん、約束。ノノが握る力を強める。カラカラと下駄が笑う。私のミュールはカツカツと、急くようにアスファルトを叩いている。繁華街の空気は、生暖かい夜気と、冷え込んだ空調の寒気が斑<マダラ>になっている。疎<マバラ>な人影がそこかしこに散見される。てっつん、指きりしよ? 横からノノが見つめる。私は立ち止まって、必然立ち止まったノノの頬に手を当て、唇を吸った。ノノが息を止めて、握り合った手のどちらかは震えていた。先刻まで噛んでいたミントガムの寂しい味がした。

「約束です」

 ノノは無言で数度頷いた。約束の仕方が気に入ったのか、大通りへ出る前に、彼女の方からキスしてきたことが殊更に寂しかった。月も蛍もない濁った空の下で、タクシーを捕まえて街を出た。

 私の下宿は大学の側にあり、しかし田園風景に埋もれていた。名の知れない虫達が、錆びた、失敗した楽器の音色を奏でている。ノノの手を引いて下車した。大した移動距離でもないのに市街とは打って変わった寂れ具合である。こんな僻地の女子寮だが、築三年の新しさと防犯設備のお陰で、部屋はそれなりに埋まっている。今は帰省している学生も多く、夜間なのも相俟って、建物は冷たい沈黙を保っていた。

「ノノが住んでるとこみたいだねえ。とってもおちつくなぁ」

 周囲を見渡して彼女が呟く。思えば、一度も彼女を連れてきたことは無かった。私がノノさんのアパートへ招かれるのが大抵で、その間取りも、キッチンにある調味料の種類も、飾り棚に並んだ小物ひとつひとつのエピソードまで全て覚えている。あの思い出達は、今もノノさんと共にあるのだろうか。引っ越しは誰が手伝ったのだろうか。そもそも、彼女がどこに住んでいるか、私は知らない。今更聞いても仕方がない。

 エントランスのオートロックを抜け、エレベーターで三階に行く。廊下には明かりしかいない。寮規則で部外者を泊めてはいけないことになっているけれど、いわゆる形骸化した法に過ぎなかった。誰かに出くわしたところで問題はない。それでも、規則違反は初めてだった。私は真面目でも、いい子でもなくなる。名実ともに。

 ノノは私の手を掴んで離さない。何をされるか推測することも出来ず、あどけない笑顔を湛えている。魔法が消失することへの恐れと、歯止めになって欲しい願望と、相反する二律を抱えた私は、黙って彼女をエスコートした。

「ひさしぶりにこいこいでもやる? 月見花見なしで。あー、でもうるさくしたらいけないよねえ。でもでも、ふふ、てっつんをギャフンと言わせちゃうんだから。楽しみだねえ、遊ぶのひさしぶりだもんねえ」

「はい、たくさん遊びましょうね」

 ――あなたで。自室の鍵を開けて、はしゃぐ彼女を先に入れた。内鍵とチェーンロックを掛ける。両隣の学生は現在留守中だ。上下については分からないが、さして気に留めなかった。騒音で悩んだことはなかったから、多少の無理は利くと推した。通路照明を点けて、ノノの肩を叩く。期待に満ちた顔が振り返った。

「あがっていい? あがっていい?」

「もちろんどうぞ」

「おじゃましまーす」

 からん。片方の下駄が横を向いたのも構わず、ノノはリヴィングへ進んでいった。私も後を追う。彼女が扉を開ける件で、壁に飾ったままの物を思い出す。案の定、電灯が照らす八畳のスペースを見渡し、彼女は自らの作品に気付いた。

「懐かしいねえ。ノノがあげたのだ」

 視線の先には、半透明の衣装カバーに包まれた服があった。黒地に白牡丹を散らした生地と、白地に赤牡丹を散らした生地の二枚で作られた和風のワンピース。ノノさんが装飾に凝っていた時期――一年前に、その副産物として彼女が手ずから縫った物だ。二着の着物を捌き、裁断し、対称と非対称を織り合わせた末に出来上がった一着は、腰元に咲いた大輪の花がアクセントだった。そこに使われた素材が袖であったり襟であったり、着物各部の集積なのが面白いと私は感じていた。昔も今も、だ。着るのが勿体なくて、壁の花となっていることに申し訳なさを覚えるものの、作者は興醒めするでもなく、内装と化したそれへ歩み寄り、感慨深そうに眺めた。

「一ヶ月くらい頑張ったんだっけ。こうしててっつんの部屋の一部になってるのは嬉しいねえ。傍に置いてもらえて良かったねえ、キミ」

 ノノさんは在学時代から手先が器用だった。サッカー部員のユニフォームを直していたのは彼女で、建物の製図も、デザイン面も、常に頭抜けていた。そんなノノさんの周りには友人が多く、私もたくさんの中の一人に過ぎなかったのに……一目置いてくれた。

 私の想いが恋慕か憧憬かは分からないけれど、或いは別の何かかも知れないけれど、今日で、さよなら。空調のスイッチを入れる。照明は逆に、絞った。フローリングにバッグを落とすと、衣ずれに似た、掠れた音がした。

「んー……? どしたの、てっつん。寝るの……?」

「ううん、ノノさんと遊ぶ」

 彼女の後ろに立ち、その腰を抱いた。ノノが振り返ろうとする。追従するように私の頭が回り込んで、彼女の首筋へ口づけた。

「ひゃっ。……もう。何す……んっ」

 こちらを向いた顔と、肩越しにキスする。腕の中の彼女は一瞬だけ震えたきり大人しくなった。唇の隙間から湿った音が流れる。私がノノに吸いついている音だ。彼女が漏らす溜息のひとつひとつまで吸って、私は身勝手に自己を扇情していく。情欲によって理性を飼い慣らそうと努める。努力はさして必要なかった。私がノノをベッドに押し倒すまでの時間は、僅かだった。

「てっつん? また約束?」

 純真な眼が私を射抜く。矢が突き刺さった私の核は、良心と言う名前を持っていた。このひとはノノさんではない。私の想いを、私の懊悩をぶつけるべきひとではない。ならば私の感情はどこへ行けばいいんだ。私の恋は、誰に捧げればいいんだ。レズとか全然分かんないし、アンタのこと理解する気もないから。首の後ろで日向が言う。あなたにそんな顔をさせようと思っていたんじゃない。私は、ただ――。

「てっつんは、さびしいんだねえ」

 思考が凍った。組み敷いた両の手の間から、ノノが私を見上げている。憐憫を交えた彼女の瞳は、私の何もかもを見通しているようだった。だから私を苛立たせた。

「あなたには分かりませんよ。分かったフリはやめて」

「さびしかったらねえ、頼ればいんだ」

「頼れなかったら!」

 自分でも驚くほどの大きな声が出た。ノノにまでお説教をされたくは無かった、私の逆鱗だった。

「頼れなかったらどうすればいいんですかっ!? 頼りたかったですよ! だけどノノさんは私を置いて行ったじゃあないですか! 何の相談もしないで、いきなり、大学、辞めるからって……! あなたがそんなだから、私はっ」

 恋人が居なくて、私の側から消える予定もなくて、親しかった……日向で妥協しようとして、失敗した。妥協? 違う。日向のことも真剣に好きだった。私の好きは、何? 『いいひと病』を看病してくれそうなひとに向けられる感情だ。私の献身を受け入れてもらうことを期待する願望だ。本当に? 私の本当は何だろう。私は何がしたいんだろう。

「怒ってるの? 笑ってよ、てっつん。ノノは笑ってるてっつんがすきだな」

 目下の女性が微笑むと、縺れた思考の糸が余計に混迷して、耐えられなくなる。深く考えるのは止めた。目的を一意に定めた。今の私は、ノノに嫌われることだけを求めていれば充分だ。

「なら、私が笑えるぐらいに、ノノさんは泣いてください」

「どうしてノノが泣くの? いっしょに笑おうよ」

 いやです。言い損ねた言葉に攣られて、顔の筋肉が歪んだ笑みを作り上げる。私は作務衣の前身頃へ指を伸ばし、結び紐を解いた。彼女の肌を暴く。薄闇の中、朧げに、白い乳房が浮かび上がる。そこに宛がった掌は、柔らかく沈み込んだ。

「くすぐりあい? よーし、ノノも、あっ」

 こちらへ触れようとした両手を捕り、私の片手で押さえつけた。彼女の膨らみを微細に変形させながら、耳元へ唇を近づけ、一方的に決めたルールを教える。

「かわりばんこ。ね?」

「う、うん……がまん強いとこ見せてあげる、からぁ」

 親指が先端を掠め、彼女の声が霞む。私はノノの感触で心地よさを覚えると同時に、自分の狡さを呪う。十二時の鐘が鳴らない。ノノの纏った呪文が解けない。早くノノさんが帰ってくればいいのに。他力本願な終末を、私は待っている。

「てっつ、なんかノノ、変かも。胸がふわふわでねえ、へんかも。交代、まだ?」

 ノノはこれが単なるじゃれ合いだと信じている。私が彼女の柔らかさに触れて、陶酔していることを知らない。微かに透けた肋骨の上に置かれた手毬は、私の手で静かに弾む。自分の体にも備わっているそれが、ノノの物だと言うだけで、指先はジンと痺れた。

 交代はしない。ノノは私に汚される役割だ。作務衣を脱がせて肩を舐める私を、不安げな顔の彼女が見る。もっと怯えればいい。おかしいと思えばいい。私はおかしいのだ。おかしいと言われた。ノノさんも私を貶せばいい。貶して、お願いだから。

 舌が肩の継ぎ目を伝い、私の跡を残していく。指が胸の形をなぞり、彼女に蜜を注いでいく。私の手の内で躍らされて尖った蕾は、指の腹で擦る度、持ち主に囀ることを強いた。

「あの、ねえ。汗かいてて、あんまり綺麗じゃないから、ふぁ……舐められるの、や、かも。やあっ」

 舌が腋の窪みをひと撫でした途端、彼女は腕を引いた。漸くの拒絶反応に気を良くする。けれど行為を止めるつもりはない。細い二の腕へと舌を走らせ、しばらくその付近を舐めたあと――噛んだ。ノノが小さく悲鳴を上げる。噛まれた理由が分からないと、困惑した眼が問いかけてきた。

「ノノさんは我慢強いんですよね。まさか、舐めたら降参なんてないでしょ? 私は頑張ってるノノさんが見たいな」

「でも、でもねえ……噛んじゃやだよ? それ以外なら、えっと、がんばる。なんだか、ちょっと、楽しくなってきたかもだし」

「そう。楽しいんだ」

 ノノにとって『楽しいもの』と成りかけているこれは、ノノさんにとってはどうだろう。遊ぶ思考を頭の隅に据え、私はノノの腕を上げた。彼女の裸身に絡みついて、両手でその胸を覆って、腋下へと唇を捧げる。浮いた汗の珠は涙の味がしたように感じられた。

「てっつんは楽しいの? ノノみたいにふわふわしてるの?」

「内緒です」

「あー、いじわるだ! 教えて、よっ。おしえ……んんっ! そこ、カリカリってされたら、つらい」

 彼女の言う、そこを爪弾く。桜色の突起は指先に引っかかる程膨らんでいて、摘まむと明瞭な存在感を示した。軽く捻ってから、また爪で虐める。子犬を思わせるノノの喘ぎと、雌猫めいた私の舐め音と性情と、くぐもった空調の唸り。

 楽しくはない。私の身体には、嬲ることで憤り、吐き出すことで悦楽を得る、分かりやすい装置がない。イメージしかない男性器が、今、無性に欲しかった。それがあれば楽しかったかも知れない。ノノと繋がって楽しめたかも知れない。私と彼女の女性は交り合えなくて、快楽は一方通行で行き詰まって滞留して帰ってこなくて、私は、独りで。この指で彼女を犯したとしても、私は多分、独りだ。性器のせいではなく、『ノノ』を求めたせいだった。体だけ求めたせいだった。私は男でも女でもない、傲慢な、おかしな肉だった。――寂しい肉だった。

 うな垂れて萎れた。ノノを手放し、私はベッドに崩れ落ちた。全然うまくいかない。苛立ちで傷つけることも、性欲で汚すことも、玩具にして壊すことも、何もかも無理だった。私は何がしたかったんだろう。横向きの顔は、右目から左目へ涙を零す。声を出さずに泣いた。私は、『いいひと病』の私は、『いいひと病のつもり』の私は、きっと見返りが欲しかったんだ。優しくした分だけ優しさが返ってこなくてもいい。優しさなんて零でもいい。でも、『好き』には『好き』を返してもらいたかった。泣いているのは、片想いする私の心だ。図々しくて切実な心だ。

 ベッドのスプリングが弛んだ。水浸しの視界に、暈けた彼女の顔が映る。私と向き合う姿勢で、ノノが見つめている。彼女が微笑しているように見えるのは、空想の光景だった。

「そろそろ交代かねえ」

「いえ、もういいんです。変な遊びをしてすみませんでした」

「あらら。あたしじゃあ興奮しなかったのか。寂しいねえ。嬌声のひとつも練習しておけばよかったねえ」

 私の目が覆われる。布……ハンカチ? シーツが吸っていた私の悲哀を、代わりに吸い取ってくれた。クリアになったふたつのレンズは、呆れたような慈しむような、ノノさんの表情を認める。

「あ……いつ、から」

「内緒。何故なら、二十一の女にとって、一人称自分の名前は痛過ぎる。それとも、てっつんはそっちの方が好きかい。だったら、てっつん限定でサービスしてあげてもいいねえ」

 ノノさんは人差し指を使って私の顎を上げた。居心地の悪さが私の目を逸らさせる。彼女を自由に弄する魔法は、私の知らない間に失効していたのだ。夢中になって彼女に触れていた事実は筒抜けで、言い逃れる術はない。ひたすらに押し黙った。

「で、だ。あたしに手を出したのは、ひなこに絶縁された反動か?」

「……知ってたんですね」

「そりゃあ知ってるさ。『鉄奈が部を辞めました』って内容のメールが、ひいふうみい……いっぱい来たねえ。あたしに報告してる暇があったら引き止めれば良かったのにとは思えど、あなたはすぐに退部してしまった。妙だから調べさせてもらったよ。極めて不粋だがねえ」

「ノノさんの仰ることに相違ありません。軽蔑してください。そして、二度と私に関わらないでください」

 声が震えて、拭いてもらった悲しみの粒が、また滑り落ちた。ああ、ノノさんにも捨てられるんだなという認識は、涙の雫に転換されたらしかった。ノノさんが再度拭き取ろうとする。その優しさを、私は振りほどいた。

「海、行くって約束したよねえ。反故にするの?」

 尋ねる声が静かに沁みた。最初から演技だったのか、記憶としてあるだけなのか、いずれにせよ、ノノさんは交わした約束を忘れていなかった。

「資格がありません」

 率直に言った。素直に在るがままを述べた。早く引き下がって欲しいと思う私は、自分から彼女を連れ込んだ癖、都合のいい女だった。全部ばれたから全部否定されたい。罪が出来たから罰を受けたい。ノノさんが口を開く。のんきな台詞を並べる。

「あたしは行きたいけどねえ。あなたとふたりで、ぼんやり流木探しなんかをしたいねえ。それを、こう、ノミで」

「どうしてっ!? どうして怒らないんですか! 私は卑怯な方法でノノさんを辱めたんですよ。海なんて……言ってる場合じゃないでしょ?」

 私の激昂に対し、彼女は困った様子だった。腕組みして右を向き、左を向き、嘆息してから私に臨んだ。

「てっつんはあたしに嫌われたいのかい?」

「……はい」

 俯き加減で返答した私の頬へ、ノノさんが触れた。つい彼女を見、眼差しが交差する。彼女は、しかし私を叱ってくれない。諭すように言葉を紡いでいく。

「あなたは、嫌って欲しい相手の呼び出しに応じて、二人っきりでの食事も気にせず、仔細構ってあげて、自室へ招待する上に、昔の贈り物も大切に飾ってくれるひとなんだねえ。そんな好意の塊みたいなひとを、高々一回脱がされたくらいで嫌いになるのは難しいよ。そこでノノさんが、他人に嫌われる方法を教授しよう。相手から嫌われるためには、まず相手を嫌うのが最も簡単でさ。ほら、『嫌い』って言ってご覧?」

「き、キライ――んっ」

 気圧されて否定を発したあと、私の口は封をされた。ノノさんの唇が柔らかく重なって、すぐに離れる。感触と温度が残留したから、私は口元を抑えた。

「次は、誰のことを嫌いかまで、はっきりと言ってみようか」

「……ノ……さん……」

 ノノさんが私の手を取る。ふたりの両手が互い互いに絡まって、指を組み合って、私は口を覆うことが出来なくなる。

「聞こえないねえ」

「ノノさんが、キライ、です。んっ! なん、れ」

 何でキスをされるのか問えないまま、押し当てられる唇に震える。僅かに顔を出した彼女の舌が、私の唇の間を舐める。迎えに行こうとする自分の舌を懸命に押し留め、私は耐えた。ノノさんへ溺れそうになっている自分に耐えた。

 細い唾液の糸が、別れた唇同士を橋渡しする。その橋はやがて壊れ、ノノさんの乳房の上に落ちた。私は銀色の儚い線に、そして彼女の膨らみに見入った。

「気晴らしになれば誰でも良かった。そうだよねえ?」

「そんなこと――ひゃんっ」

 ノノさんが密着したと思った次の瞬間、右耳が溶けた。彼女の舌に踊らされて、輪郭が崩れるイメージを得る。私の耳は、何かとてつもなく漠然とした、抽象的な装置になる。だのに、受ける感覚は確固として私を揺さぶる。

「もっと頑張らないと、嫌いになってあげないよ。誰でも良かった。さ、復唱して?」

「誰でもなんて、ふぁ……ちがっ、ちがう、もん」

 彼女に齧られて、齧られて齧られて、中途半端に私の芯が露呈する。迂闊な本音を覗かせる、私という林檎。ノノさんの言葉が瑕をなぞる。唇は耳朶を甘く食んだ。

「あたしのこと嫌いなんでしょ?」

「それは、それは、だって」

 返答に窮する。上手に嫌わないと。でも私は彼女のことが好きではないか。さっきから、どうして嫌う努力をしているんだろう。ノノさんのこと、嫌いになれないのに。好きなのに――。

「あたし『も』好きなのにねえ」

 いっぱい頑張ったみたいだけど、残念でした。ノノさんは笑いながら言って、私の額を突いた。私はベッドの上で仰向けになる。丁度、彼女の『好き』でノックアウトされた風だった。

「ああ、でもねえてっつん。あたしがあなたを好きなことは間違いないとして、この好きがどういう好きなのか、あたし自身よく判らなくてねえ。友愛かも知れない。同情かも知れない。てっつんの頭を撫で撫でしてあげたい気持ちもあれば、別の場所を撫でたい気持ちも無くはない。愛<マゴコロ>か恋<シタゴコロ>かさえも、うーん……とりあえず、『好き』でいいかねえ? 明確な形は、あなたが削り出してよ。時間をかけてさ」

「……そこも私任せなんですか?」

 照れ隠しの皮肉を言って、泣きながら笑って、何だか私は忙しかった。表情も気持ちも滅茶苦茶だけど、ノノさんに嫌われていないことが、『好き』をもらえたことが、ひたすらに私を幸福にした。彼女が膝枕をして私の涙を拭く。それでまた泣いてしまうものだから私もノノさんも困った。

 不意に、彼女が私の頭を抱きかかえた。頬にふくよかな感触が当たる。とくん、とくん。彼女の生きている音がする。彼女が確かに側にいる。私は無意識に腕を伸ばして、ノノさんの背中へ回した。なるべくくっついていたかった。

 やがて安堵が満ち足りて、彼女の胸の中でまどろみに落ちていく。交代はまた今度だねえ。労わる声色の、でも少し残念そうな彼女の台詞が聞こえる。私の髪を梳く彼女の指は、手持ち無沙汰な様子だった。だけど。

 今日の私はいい子じゃないから、このまま、ここで眠らせてください。

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