【あのころ/Love.1997】

・風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律 第一条

 この法律は、善良の風俗と清浄な風俗環境を保持し、及び少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止するため、風俗営業及び性風俗関連特殊営業等について、営業時間、営業区域等を制限し、及び年少者をこれらの営業所に立ち入らせること等を規制するとともに、風俗営業の健全化に資するため、その業務の適正化を促進する等の措置を講ずることを目的とする。

 カウンタでピアニッシモ・ペシェを弄んでいると、懐かしい制服を着た二人組が入店した。私の専らの仕事と言えば客へさりげない一瞥を飛ばすと共に目算でその性別を同定することであったが、彼女たちの衣装が私にとって特別であったがゆえに、ふと不躾な視線を続投してしまった。連れ人より頭ひとつ背の高いもうひとりが気づき、仄かな後ろめたさを孕んだような表情でもって俯く。私の推測はそれなりの純度を保っており、彼女らは実際に後ろめたいのだろうと思う。あのころの私がそうであったのと同じだ。マジョリティからの排他に葛藤する年頃だ。若さと苦さが字体の相似を持っているのはきっと誰かの意図を含有していて、畢竟青春とはその二字に集約されている。

 年をとるのは素敵なコトですと大黒摩季が歌っていた1994年、私は14歳で、青春だった。竹刀が手のひらに剣ダコを作り、問題集が中指にペンダコを作り、武道場が足裏にタコを作り、外れた胴が脇の下へ打ち込まれる強かな痛みと、外れたヤマが模試の結果へ打ち込む残念な判定と、視界の外れに映るあなたへ入れ込んでいたささやかな恋と、ひたむきに純情に立ち向かっていた時代だった。ただし私の恋心は、叶わず、秘めた、文庫の間に挟まれたニオイスミレのしおりじみて、記憶の一頁にひっそりと添えられている。初恋の相手は後輩の女の子で、私もまた少女だった。強かさとしなやかさを纏い、そのくせ脆く不安定なふたつの現象だった。

 年を取れば、と当時の私は考えていた。年を取れば私も異性へ恋するに違いないのだと誤った認識を保有していた。同性愛が思春期の幻想であるならば、既にその箱庭を後にした私の恋慕は一体どう説明されるのだろうか。あのころの私が必死になって否定しようとしたものは、どうしようもなく次の私、次の次の私へと継承されて、29歳の私も相変わらず女性を愛しているらしい。

 制服姿の二人組が、不安げに、しかし確かな足取りで筺体の群れへ進んでいく。赤いスカーフがグレーの胸元に咲いた、私の出身高校の制服だ。あの格好でよくうちの店に入って来られたものだと疑心が湧く。私の根城は文字通りの城、中世の古城を何倍にも安っぽくした尖塔付きかつ白々しい外装の店舗で、一見してラブホテルにしか見えないのだ。表の立て看板には店名の『EnigMa』が記されているが、この名前を冠したロータ式暗号機を知っていたところで店の職種解読に役立ちはしない。EnigMaは風俗営業適正化法第二条第八号営業店に属するアミューズメント施設として公安に許可されている、要はゲームセンターだ。一度入店してしまえば疑問を挟む余地はない。派手な電飾を伴った近年流行の大型筺体から、ぬいぐるみの詰まったクレーンゲーム、楽器を模した音楽ゲーム、定番のビデオゲームまで一通りをカバーしている。営業時間中は常に稼働しているそれら筺体の殆どは疎らな客しかつかない程度に採算が取れていない、オーナーの道楽だけで成り立っているも同然の赤字設備である。彼女は私の想い出話を面白がってEnigMaを創造したのだった。

 ペシェを灰皿で詰った。先刻の客は色とりどりの筺体の森へ姿を消している。あのころの私が、私たちが楽しんだ遊びを、彼女たちも楽しんでいればいいと思った。ふたりの進路はEnigMaの店内を半分埋めている、俗にプリクラと呼ばれている機器のブースだ。今は廃れて久しいけれど、1997年ごろにムーブメントを巻き起こした写真シール機たちに対して私は特別な思い入れがある。閉じた機械の箱の中、それでも私たちは自由だった。

 17歳の私には17歳の彼女がいて、世間の異性愛標準におびえていたのが私、全く気にしていない風なのが彼女だった。「だって、好きになったらしゃーないじゃんね? わたし由枝<ユエ>にハマってんだもん。そしたらさ、女同士だからとか、んな細かいこと構ってらんないよ。理屈で否定出来ないから恋愛なんだし」。私は彼女みたいに割り切れなくて、自分たちの関係に悩みや戸惑いを多く持ち、一緒に居ても心地よさと居心地の悪さとが曖昧に混ざって苦しかった。同じ、同性を好きなひとに巡り合ったのに、彼女のことをとても愛しく思うのに、心の片隅に転がった常識が邪魔をした。

 そんな1997年はプリクラの撮影や交換が流行り、友達や恋人、自分を始め、果ては友達の友達の友達まで被写体が広がったシールで手帳を埋めているのが当たり前だった。私も彼女と何枚か撮影していたが、それは付き合い始める前の、仲のいい友達としての写真だった。まだあんな明るい笑顔のふたりで居られるのかが不安で、交際後は彼女と写ることを意識的に避けていた。けれど、やっぱり私だって他の子の手帳にある特別なひととの一枚が羨ましかったから、彼女を誘ってゲームセンターに赴いた。

 問題の機器のカーテンをいざ潜ってみると、急な後悔が押し寄せた。硬貨を挿入する指が震えていた。響くゲーム機たちの唸りや傍のプリクラに入っているひとたちの声が、妙に心を硬化させた。気持ちは降下して段々自分が何をしているかわからなくなって、レンズにフォーカス出来なかったのが私、私の感覚<センス>にフォーカス出来ていたのが彼女だった。

「てい」

「えっ……あ」

 彼女が私を抱き寄せて、頬には温かな唇が触れた。それがシャッターチャンスで、抜け目のない彼女はタイミングを逃さずにボタンを押した。『撮り直す場合は――』。案内音声を無視して彼女はペンを走らせ、手早く操作を片づけてしまった。「と、撮り直そう? 今絶対変な顔してた」「ヘンガオかどうかは自分で確認したまえー」。私の目前で両手の指をくねらせる彼女は、多分、写真に魔法でも掛けたのだろう。取り出し口に落ちた写真の中の私は、そんなにおかしくはなかった。むしろ驚きと照れの入り混じった中、間違いなく嬉しそうにしていた。幸せそうだった。写真を確認している私を後ろから抱き締め、彼女は私を左右に揺さぶる。「由枝はもー、ごちゃごちゃ悩み過ぎだって! ほっぺにちゅーくらいで乙女になるような女子が、あんましむつかしく考えんなって話なわけよ! 何故なら身体は言葉より早く、目は口ほどに物を言い、てな具合。わたしに惚れてんだろ!? わたしも惚れてるって! それでよくない!?」。私は彼女の勢いに不思議と説得されて、幾度も幾度も頷いた。手の内の証明写真が、何より私の幸福を保証していた。「宜しい。そしたら……あー……えー……ホントのキスも、撮ってみたりしませんか、て、さ」。彼女は彼女で照れていたのも写真がそれとなく明らかにしていた。私の頬に口づけた、彼女の頬の方が赤かったのだから。

 今も残っている手帳には、『Love.1997』と書かれた私たちの想い出が僅かに色褪せていても明瞭に飾られている。軽いキスから人には見せられない行為までの記録を見るにつけ、「若かったな」と呟く私は、年を取った。煙草も呑めばお酒も嗜む、自分で稼いだお金で自分の選んだマンションで、自分の好きなひとと、ゆっくり時間を過ごせるようになった。年をとるのは素敵なコトですとは必ずしも言い切れない側面があるのは、『夏が来る』の歌詞からも充分読み取れる。あの歌詞が沁みるぐらいには私も年を取った。でも、年齢を重ねることもそんなに悪くはない。あのころの私が選択出来なかった幾つかのことへ手が届くようになった。例えば今、私は恋人と同棲している。あのころの私が選択出来たことが、逆に選べなくなったりもする。例えば今、お金がないからと言ってカラオケボックスやプリクラの中で愛し合うようなことは、正直な話恥ずかしい。

 私の感想と無関係に時間は粛々と刻まれていく。現在もやがて過去へ流れ去り、褪せた写真たちみたいに、回想するための道具へ変わっていくのだろう。『万物は流転する』。古代ギリシャの哲学者が既に悟った真理は、わかりやすい形で私たちの目の前を通り過ぎていく。プリクラ手帳なんてもう流行っていない。1997年の彼女と別れた時は一週間泣いた。私は中学生でも高校生でもなく、ゲームセンターのスタッフとドイツ語の翻訳家の二重生活をしている。母が遠いひとになった。友達が結婚した。ピアニッシモ・ペシェは最後のカートンを吸い終えると、ピアニッシモ・ペティルに名を変えた物を吸うことになる。

「ゲームセンターと言う物が最早過去の遺物でしょう。想像してご覧。薄暗い、煙草の煙に塗れた、その場の空気だけで不健康を触発する、掃き溜めめいた不良少年不良少女の温床を。そんな店はみな消えてしまった。時代は健常さを、健全さを、効率を求めてひた走る。過去は軋轢されて埋葬される。

 ああ、ちなみにあたしは過去の恋を『幻想だった』なぞと言って安堵する人間は片端から縊られてしまえばよいと思うよ。過去は認めるべきだ。痛みと共に超克すべきだ。安易な解決は猿の挙動、懊悩の向こうに在る結論こそ美しいヒトの所業でしょう。あなた自身が諒解している通り、あなたのアドゥレセンスは無駄ではなかった。自己認識のよい機会だったね。ただし1997年にあなたの葛藤は終了し、よってエリクス・モダンはあなたを拒む。

 それにしても、くはっ、写真シール機か。あったあった、九十年代の亡霊だ。携帯電話の発展で淘汰された時代の迷い子だ。何処かに在庫があぶれていることでしょう。そいつを集めて遊んだら、どんなにか楽しいか知れないね。あたしは風営法自体も並んでいる異性異性って単語も笑えて仕方がないから、そうだ、敢えて風俗営業で申請して、実態は性風俗特殊営業の亜種と言う玩具を創ろう。何が『善良の風俗と清浄な風俗環境を保持し』だ。娯楽は猥雑でなければならない。閉塞して、不健全でなければならない。丁度打って付けの城がある。あなたの後ろからおっかなびっくり歩いて来る子供たちへ手向けて、遊技場を誂えてみたらどうかね。全く、微塵も金にならない辺りが最高だ。ビジネスとして終わっているゲームセンターに、ビジネスとして成立しない女と女の出会いの場だ。だが、『少女の健全な育成』について、エリクス・モダンは否定を否定しましょう」

 私を勧誘した際、ゴム手袋を嵌めた手で銀の鋏を開き閉じ、オーナーは口上を並べた。友人伝手に知り合った彼女は偽名をハサミと言って、『エリクス・モダン』なるショットバーを経営しているらしい。得体の知れない素性以上に、感情の伺えない狐目が怖くもあったが、翻訳一本では生活が厳しい私にとって、彼女が提示した報酬の額は魅力的だった。それ故に私はこの『EnigMa』で、女性同士が睦み合う城の中で、今日も煙草を吸っている。

 ただ、私はオーナーが言うほどの猥雑さも、閉塞も、不健全さも感じてはいない。あのころの私にとって、ここは必要な場所だった。彼女を好きだった私が幸せに満ちた表情でいることを確かめるのは大切だった。私は沢山の若さと苦さを味わったけれど、多くの物が淀まずに後ろへ駆け抜け、変わり、いつか忘却の彼方に向かうけれど――1997年の私は、私が見ても、誰が見ても、きっと、恋だった。

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